2016年1月、2月、3月分の日記です。
2016年1月17日 日曜日
カップに入ったマンデリンコーヒー
最近はチェーン店のコーヒーショップが幅を利かせて街の喫茶店が減っていますが、長岡駅前にある「おぐま珈琲店」は私が子供の頃からあり、当時と少しも変わらない老舗です。
私はモカような酸味がある珈琲よりも、ふっくらとした味わいのマンデリンが好きで、少し贅沢をしたい時、この店のドアを開けます。
カウンター席と、わずかなボックス席があり、お客さんによってカップが変わるのが特徴で、行くたびに違うカップが出てくるのも楽しみの一つです。
BGMはクラッシックのみ。この日はバッハのチェンバロ協奏曲がかかっていました。

2016年1月22日 金曜日
映画「パディントン」のポスター
知己の医師に誘っていただき、新潟大学医学部医学科4年生の生命倫理の講義に参加しました。
内容は学生を10人程度のグループに分け、講師から与えられたテーマで討論することがメインで、私のグループは英語の講師であるW先生も加えて「延命治療」について考えました。
まず、私のグループでは延命治療を、快復の見込みがなく死期の迫った患者さんに、人工呼吸器や点滴で栄養補給をしたりなどして生命を維持するだけの治療と定義するところから始め、昨年亡くなられたW先生のお母様とご家族をモデルケースに、延命治療にかかわる患者、家族、医師の関わりについて討論しました。
学生からは治療の経過にともなって、これから起こりうる事についての説明が医師からあったか?
それぞれの治療の結果について医師から説明があったか?
延命治療を選択するか否かについて医師に相談したか?などの質問が出され、これにW先生は実にていねいに答えられていました。
印象に残ったのは、医師は延命治療の選択について、患者さん、家族に意見をすべきかという問題に、私は「挿管した場合、しなかった場合、それぞについて、できる限りていねいに説明し、意思決定は患者さん、家族に任せるしかないのでは?」と述べると、となりの女学生が「私はそうは思いません。医師として意見はすべきだと思います。」と反論されました。さらに「ただ科学的に手続きと結果を告げるだけでは、患者さん、家族の心は救われないと思うからです」とたたみかけられ、おかしな言い方ですが、その真剣さがとてもうれしかった。
私は、この娘はきっといい医者になると思いました。患者に対するパターナリスティックな思いを医師が自ら排除して愛情のアウトプットは自分の仕事だけにして、患者さんに対しては狭い意味での医療サービスとして振舞えば楽でしょう。でも、自分の理屈で患者さんを思いやることがそれほど悪いことだとは思えません。問題は、患者さんと自分が見ている景色が違うかも知れないことを自覚できていないところにあると思うのです。
W先生のお母様は非常に短期間のうちに病状が悪化し、延命治療の選択も短時間の間に決断を迫られるなど、シビアな状況で家族も悩まれたようです。亡くなられて1年に満たないのに、質問にはていねいに答えていただいて感謝しています。
少しでも気持ちを楽にしていただきたいと現在公開されているファミリー映画「パディントン」を紹介しましたが、なんだか的外れで、私も追試を受けたい気分です。(この日、学生は追試がありました。)
延命治療、尊厳死をめぐる問題は、患者さんと同じくらい家族も悩み、医師も悩み、技術の進歩が新たな苦悩をつくりだしている倫理問題です。確固とした生死感があれば、それが救いになるのかも知れませんが、それを宗教に求める人もいれば、さらなる技術の進歩に求める人もいて、人それぞれなのでしょう。

2016年2月8日 月曜日
堀川惠子著、教誨師の表紙
2016年1月2日放送の読書バラエティ番組「100分de名著」は年始特集として「平和」をテーマに、
フロイト・「人はなぜ戦争をするのか」
井原西鶴・「日本永代蔵」
ブローデル・「地中海」
ヴォルテール・「寛容論」
の4冊を取り上げ「平和」の本質に迫りました。
それぞれ別な視点から平和が論じられ面白かったのですが目からウロコだったのは、精神科医の斎藤環さんがプレゼンしたフロイトの「人はなぜ戦争をするのか」で、人における集団は基本的に暴力と感情の結びつきで秩序が維持されるのであって「法律」とは、すなわち「暴力」であるということです。法を犯せば自由を奪われる。また、国によっては命を奪われるわけですから確かにその通りです。
さて、本日ご紹介する堀川惠子さんの著作「教誨師(きょうかいし)」は、その是非はともかく、日本の法律にあって極刑である死刑制度を支える人と死刑囚のドキュメントです。
教誨師とは、許されざる罪を犯し、間近に処刑される運命を背負った死刑囚と対話を重ねることにより人間性を取り戻させ、最後は執行の現場に立ち会うという役で、神父や僧侶がその任に当たる無報酬のボランティアです。
本書に登場する教誨師の渡邉普相(わたなべふそう)さんは浄土真宗の僧侶で、14歳の夏、学徒動員で働いていた広島の爆心地のすぐそばで被爆されました。そこで見たものは、戦争という人間の愚かさが作りだした無用の「死」であり、やがて教誨師となってから見たものは、人間が法律で定めた罰としての「死」でした。
本書はライターの堀川さんが渡邉さんにインタビューする形で、教誨師になったいきさつや、半世紀に渡り教誨師としてかかわった死刑囚とのエピソードを語っています。そこには「罪」とは「死刑」とは一体何かという重い問いかけがありました。
教誨師は拘置所内(死刑囚は刑務所には収監されません)で知り得た情報を口外してはならないと法務省通達で定められており、本書の上梓については自分が死んでからにしてほしいと渡邉さんより条件がつけられたそうです。そこには自身もほどなく世を去ることを予感して、単なる記録というわけではない、死刑というものの実像を世に出しておくべきという強い意思が感じられ、永く秘められてきた事実は息をのむすさまじい内容でした。
連続女性殺人犯、強盗殺人犯、連続強姦殺人犯、ホテル日本閣殺人事件の小林カウ(1984年、吉永小百合主演で天国の駅というタイトルで映画化された)など、どの死刑囚も、その背負った人生や性、執行に至るまでの教誨の様子、そして執行の様子が語られていますが、一番印象に残ったのは、あの大久保清連続殺人事件の大久保清の執行に立ち会った時のエピソードで、本人は執行に当たって教誨師は必要ないと拒否し、刑務官もそれを認めていたのですが、渡邉さんは「坊主がいなくては、ただの人殺しだ」と大久保を説得し、立ち会ったそうです。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」親鸞で最も有名な悪人正機説です。フロイトによれば死刑は暴力です。しかし、この言葉により、そこにわずかでも「救い」が生まれる、そんな気がしました。
ただ、人が人を裁けるか、人が人を救えるか。本書を読んで、ますます分からなくなりました。

2016年2月10日 水曜日
視覚障害者にもアクセスしやすいネット環境とは何かということに関心があり、それなら自分で作ってみようと思ったことがきっかけで始めたホームページですが7年が経過しました。
20年以上前にパソコンを始めて以来、同じプロバイダでホームページの無料開設サービスを使ってきましたが、プロバイダの都合でURLが変更になります。料金はこれまで通り無料なので助かります(笑)
次回の更新以降、以下のアドレスに変更になりますのでご注意下さい。
http://osteo.o.oo7.jp

2016年2月14日 日曜日
映画「オデッセイ」ポスター
リドリースコット監督作品「オデッセイ」を観ました。同じSF作品でも私は「スターウォーズ」よりも「エイリアン」のほうがはるかに好きなので楽しみにしていました。
原作はアンディウィアーの小説「火星の人」で、火星にひとり取り残された宇宙飛行士、ワトニーのサバイバルをリアルな科学描写で描いています。(このリアルであるということが私にとっては重要)
地球から2億2530万キロ離れた火星、気温はマイナス55度、酸素も水もなく地球との通信手段もないという過酷さの中、主人公のワトニーは冷静さと科学知識で問題を一つ一つ解決していくわけですが、老荘思想のそれに似た遊び、あるいはユーモアともいえるものの見方で逆境を乗り越えていきます。その姿は、いわゆるヒーローとは一味違い、観客を勇ましさではなく、暖かくポジティブな気持ちにさせ、さすがリドリースコットという感じでした。
現実には、火星の有人探査をするのはNASAによると2030年代の実現を目指しているといわれていますが、ライト兄弟が30メートル空を飛んでからわずか66年後、人類は38万キロを飛んで月に降り立ちました。オデッセイもきっと実現すると思います。

2016年3月1日 火曜日
小説「教団X」の表紙
中村文則さんの長編小説「教団X」を読みました。567ページという大作で、ジャンル的は純文学になるのでしょうが、個人が抱える心の闇が、戦争やテロ、偽善など、集団としての滅びに結びついていく、まるで現在の世界を映したかのようなリアルな物語が分かりやすいプロットで展開されていて、ボリュームを感じさせない面白さでした。ジャンルは違いますが、私的には瀬名秀明さんの「BRAIN VALLEY」を読んだ時と同じくらい興奮しました。
二つの教団の代表者、松尾と沢渡の関係性(物語の上では松尾の集団は教団ではない)をチャールズとマグニートに置き換えると、アメリカンコミックを映画化した「X−MEN」の構成に似ていて、立場は似てはいるけれども二つの異なった思想を示すことで、読者はそれを対比し、生や性、善や悪について、より深く感じる効果があると思いました。
今、世界は混とんとして、再び力が支配する様相を呈しており、漠然とした不安を感じている人も多いのではないでしょうか。本作はそんな空気が生んだ、そんな気がしました。

2016年3月6日 日曜日
スライド
新潟市において開催された理学療法研究会に参加しました。
2013年にNHKスペシャルのシリーズ企画として放送された「病の起源」では、進化医学の視点から、がん、脳卒中、うつ病、心疾患について病態と発病メカニズムを解説していましたが、脳卒中については、脳の急激な進化によってかかえることになった脳の血管系が持つ構造上の問題と、生活習慣病としての高血圧が発症の原因になることに納得された方も多かったのではないでしょうか。
脳卒中は、がん、心疾患と同様に罹患率が高い疾患であるわけですが現代においても根治療法は確立されておらず、重い障害を残すこともあり、特に半身の麻痺は生活の質を低下させることから医学的リハビリテーションの分野では半世紀にわたり主要な研究テーマになっています。
前出の「病の起源」でも経皮的に磁気刺激(TMS)や微弱電流刺激を脳に与えながら作業療法を行うことで脳の神経回路に新しい迂回路を作り、脳機能を回復させる試みが紹介されていましたが、私が参加している学会でも最新のトピックを学ぶ勉強会を定期的に開催しており、今回は広島大学医学部の研究トピックも交えながら、脳卒中の急性期リハビリテーションについて総合的に学びました。
最近はFMRIといった脳活動を画像として観察できる装置の普及で、より客観的な評価ができるようになり、従来の定説が否定されることもあるようになりました。例えば、脳卒中の早期リハビリは有効ではないことを世界の研究者が発表していますが、広島大学での検証結果も同様であり、これは今後エビデンスになっていくものと思われます。
もう一つ、今回の最新の知見でなるほどと思ったことは、錐体路系の10〜20パーセントは同側を下行しているらしいということで、これが事実なら片麻痺であっても座位がとれる人が多いことの説明がつくこと、また、従来の随意性の高い近位部を用いて遠位部の介入につなげていく手法の合理性も肯定できます。

2016年3月26日 土曜日
アドラー人生の意味の心理学
2月の読書バラエティ番組「100分de名著」はアドラーの「人生の意味の心理学」でした。
アドラーはフロイト、ユングに並ぶ心理学の三大巨塔の一人です。「過去は変えられなくても、今現在そして未来は変えることができる」という、理論と実践が結びついたアドラー心理学(個人心理学)は日本でも人気で、多数の関連書籍が刊行されています。
個人心理学の特徴は、すべての人間関係は対等であるとし、そこで起こる問題について解決法を考える時、問題は何かの目的のために起こっていると考ます。例えば、子供時代に強烈ないじめ経験があったから社会でうまくやっていけないと考える(原因論)のではなく、社会に出て他者と関係を築きたくないから、子供時代にいじめを受けた記憶を持ち出す(目的論)と考えるわけです。つまり個人心理学によれば、人は過去の「原因」によって突き動かされるのではなく、現在の「目的」に沿って生きているということです。
だから人生はいつでも選択可能であり、過去にどんな辛いことがあったとしても、これからどう生きるかには関係ないとしています。ただ、それをしないのは、「選択したくない、現在の状況から変わりたくない」という決心を下しているに過ぎず、幸せを実感できない人に足りないのは、能力でもないし、お金でもないし、恵まれた環境でもない。変わること(幸せになること)に伴う「勇気」が少し足りないだけだとアドラーは考えたのです。
東日本大震災以降「人と人の絆」ということが言われましたが、一方で「加入者の減少による町内会の崩壊」も起きていて、この二つの事象は一見相反する事のように思えるけれども、他者との関係性や距離感をどう取ったらいいか分からなくなっている現代人の悩みがあり、アドラー心理学が人気になる背景なのではないかと感じます。また、承認欲求の問題などは「良いことは誰にも知られずにやる」という日本人が古来より持っていた美意識と重なるところもあり、個人心理学を身近なものとして考えやすいと思います。
学問としてだけでなく、個人として、人類として(共同体感覚)幸せになる実践である個人心理学ではありますが、キモである「人生を選択するために少しの勇気を持つ」ことは簡単ではないと感じています。

2016年3月27日 日曜日
映画リップヴァンウィンクルの花嫁のポスター
岩井俊二監督作品「リップヴァンウィンクルの花嫁」を観ました。
もし、サブタイトルをつけるとしたら、私なら「ネット時代の幸福論」とでもするでしょうか。現代を鮮やかに切り取った岩井ワールド全開の作品で、プロットと展開の良さで3時間を短く感じました。
代用教員の七海はSNSで知り合った鉄也と結婚します。その結婚式で親族や友人役の代理出席者を、なんでも屋の安室に依頼します。新婚早々、鉄也の浮気が発覚すると、義母に逆に浮気の罪をきせられ家を追い出されてしまいます。苦境に立たされた七海に安室は次々と奇妙なバイトを斡旋していくという都会の童話のようなストーリーです。
この作品を観て、幸せを担保するものって何だろうかと考えた人は多いと思いますが、人とお金は共通するのではないでしょうか。
人に関しては誰かの期待にそう事が出来た時だけ愛されるような関係性は息苦しいし、なにもなくても愛せる、愛されるというのが理想だとしたら、それに近づくためには期待しすぎないこと、完璧な幸せなんか無いことを知ることも必要なことだと、この作品を観て思いました。
「この世界は本当は幸せだらけなんだよ」というセリフが心に残りました。これに気付ける人が幸せになれる人なのだと思います。

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