2021年1月、2月、3月分の日記です。
2021年1月11日 月曜日
屋根の雪下ろしの様子
年末寒波で先週の日曜日に雪下ろしをやったばかりなのに、6日午後から11日午前中まで第二の寒波に見舞われて2回目の雪下ろしをやりました。駐車場は消雪パイプがあるので雪を消せるのですが、自宅は屋根から降ろした雪でいっぱいになり、物置小屋は完全に雪に埋もれてしまいました。
この寒波による大雪で長岡、柏崎、十日町、上越、糸魚川、妙高の6市は災害救助法の適応となり、県内では7日以降に少なくとも5人が死亡、148人が負傷したようです。うちの近所でも76才で一人暮らしの男性が自宅の車庫の雪下ろし中に転落し大怪我を負いました。雪下ろしは二人以上で、命綱とヘルメットを付けてやるように行政は指導していますが、業者も含め実行している人を見たことがありません。
私が子供の頃は、小学5年生ともなれば屋根に上がって大人と同じように雪下ろしをするのが当たり前で、できなかった私は劣等感に悩まされたものです。それだからというわけではないのですが、怖くても雪下ろしは自分の手でやらなければいけない気がして。次元が違いますが三島由紀夫の感じていた自身の虚弱な肉体に起因する劣等感もこんな感じだったのかと想像しています。とは言え、屋根に上がるどころか、ハシゴをのぼるだけで恐怖で足がすくんで満足な雪下ろしにはなりません。それでも、周囲からどう思われようと、怪我をしないで屋根にかかる重量の7割が減れば私的には上出来です。
ただ、怖くて屋根の軒先に立たてないので態勢が悪い状態でやることと、雪下ろしの不思議で顔には汗をかかないのに、首から下はものすごい発汗があり、水分と電解質が急速に失われるせいか、雪下ろしの後は必ず大腿四頭筋、ハムストリングス、内転筋を中心に筋けいれん(いわゆる足がつる状態)が起こって辛いです。

2021年1月17日 日曜日
映画「えんとつ町のプペル」のポスター
廣田裕介監督作品「えんとつ町のプペル」を観ました。この作品の原作は、お笑い芸人コンビ、キングコングの西野亮廣(にしのあきひろ)さんの絵本です。
舞台は町中に無数に立つえんとつの煙で、いつも薄暗く星も見えない、世界から孤立している町。この町のゴミ捨て場で、ハロウィンの日にゴミ人間のプペルは生まれます。ゴミの化け物で悪臭を放つプペルを町の人びとは嫌悪しますが、少年ルビッチだけは理解を示し、二人は友達になります。
ルビッチは、どんなに町の人々からバカにされようと、亡くなった父が話してくれた町の外には別の世界があることや、夜空には星が輝いていることを信じており、いつか、星を見る夢を叶えたいとゴミ人間に語るところから物語は始まります。
なぜ、えんとつ町が煙の町になって世界から孤立したのかという背景や、父とゴミ人間の関係などが徐々に明らかになっていくなかで、夢を持つと笑われる社会を変える勇気や、やってみないとわからないことを簡単に否定してはいけないことなどがジーンと胸にひびいてきました。このあたりは子供とオジサンで、それほど変わらない感想だと思いますが、えんとつ町と世界の関係性を明らかにしていく少年の行動は、実は幸福な社会を望む町の人々の思いと矛盾するものがあることに気付いたオジサンは、この作品の奥深さに、さらに感動しました。

2021年2月7日 日曜日
映画「哀愁シンデレラ」のポスター
観た人を嫌な気持ちにさせる映画はそう多くないと思います。2010年公開の渡部亮平監督作品「告白」、2017年公開のダーレンアロノフスキー監督作品「マザー!」などが私の場合それに当たりますが、現在公開中の渡部亮平監督作品「哀愁シンデレラ」は、まさにそういう作品で、心についた深い切り傷が膿んで悪臭を放っているような作品でした。
主人公は児童相談所で働く26才の小春。彼女は真面目な性格で、自転車屋を生業とする父と妹と祖父と4人暮らし。母親は彼女が幼い頃に「あなたのお母さんはやめました」と言い家を出て行ったきり。彼女はそれ以来、「母親である」ことへの責任を重く捉えるようになっていました。
ある夜、祖父が風呂場で倒れ、父の運転で病院に向かうも事故を起こし、父は飲酒運転で連行され、蚊取り線香の不始末が原因で自宅兼店舗は火事になり、自転車屋は廃業に追い込まれ、彼氏の浮気を目撃(しかも相手は自分の同僚)してしまいます。一晩ですべてを失うという不幸にみまわれた小春。そんな時に出会ったのが、8才の娘ヒカリを男手ひとつで育てる41才の開業医、大悟でした。
彼は背が高くハンサムで優しく、そして裕福、まさに王子様でした。彼のプロポーズを小春は受け入れ、不幸のどん底から一気に幸せの頂点へ。果たして、その先には何が待っているのか。童話の「シンデレラ」「不思議の国のアリス」「赤い靴」などをモチーフにしたと思われるサイコな物語が衝撃の結末へ向って動き出します。
裕福でハンサムな大悟との結婚で最高の幸せをつかんだ小春。でも、大悟の家は何かおかしい。次第に、優しい大悟と、可愛いヒカリの、得体の知れない、おぞましい顔が見えてきます。それでも「母親である」ことへの責任を果たし「幸せな家庭を築く」ために、人格が崩壊してしまうまで追い詰められて、小春自身もおぞましいものに変っていく姿が恐ろしかったです。
人は誰かの不幸を覗きみるとき、いけないことと分かりつつも妙な高揚感を抱いてしまう瞬間があると思います。見てはいけない、面白がってはいけないと思うほど、好奇心をくすぐられてしまうような。この感情こそが嫌な気持ちの元凶で、本作はそれを誘導するような感じがしました。
リアルとファンタジーの狭間を不気味に漂うような作品でした。

2021年2月14日 日曜日
映画「すばらしき世界」のポスター
西川美和監督作品「すばらしき世界」を観ました。本作は佐木隆三さんのノンフィクション「身分帳」が原案ではありますが、映画オリジナル脚本となっています。
人生の大半をヤクザ社会と刑務所で過ごした男、三上(50代後半)は、殺人罪で13年の刑期を終え出所します。身元引受人の弁護士の助けを借りながら自立した生活を目指すも、目まぐるしく変化する社会からすっかり取り残されて、思うようにはいきません。
そんなある日、子供の時に生き別れた母親との再会を望む三上に、テレビ局のディレクターの津乃田とプロデューサーの吉澤が会いに来ます。彼らは、懸命に社会に適応しようとあがきながら、生き別れた母親を捜す三上の姿を、感動ドキュメンタリーに仕立て上げようと画策しますが、物語は思わぬ方向へ動き出します・・・。

現在、新潟日報に不定期で連載されている雨宮処凛さんのエッセー「生きづらさを生きる」を読んでいつも思うのは、生きづらさを感じている人の問題は、身体障害とか貧困など、社会的弱者になった彼等の内にあることだけに、その原因を求めるのは間違いではないかということです。むしろ他者に対する寛容さを失ってしまった社会の側に、実は生きづらさを感じる原因があるのではないかと思います。本作の過ちを犯し社会からつまはじきにされた男が、再出発しようともがきながら七転八倒する姿には、それが描かれていたように思えました。
世の中の不寛容について、三上は反旗をひるがえすかのごとく、チンピラに絡まれたサラリーマンを助けた後、津乃田との電話で「善良な市民がリンチにおうとっても見過ごすのがご立派な人生ですか!」と問いかけたのに、知的障害の青年が職場でいじめにあっているのを目撃しながら「社会に適応するために」必死に見過ごしたシーンは切なく、でも、最後にそんな彼を理解し、愛してくれていた人たちが、ちゃんといたことが本当によかった。
不寛容な社会の光と影を炙り出した傑作でした。

2021年2月21日 日曜日
解熱鎮痛剤タイレノール
発熱や頭痛、生理痛などで市販の解熱鎮痛剤を利用している方は、コロナ禍の今、そのまま使い続けてもいいか迷う方もいるでしょう。もし、発熱があれば、薬は飲まないで自治体が運営している「新型コロナ受診・相談センター」または保健所に電話をして、医師の診察を受けるのがベストですが、とりあえず市販薬で様子をみたいと思ったら、バファリンやイブ、ロキソニン、ボルタレンといった薬(非ステロイド性抗炎症薬 NSAIDs)よりもタイレノールを使うことをおすすめします。理由は非ステロイド性抗炎症薬はウィルス性の発熱には向かないことと、副作用が少ないからです。
ちなみに風邪をひいたら総合感冒薬は飲まないほうがいいです。自分の症状にあう、例えば、熱が一番辛ければ解熱剤、のどの痛みが一番辛ければ、のどの炎症を抑える薬を選んで、単品で使うほうが安全です。

2021年2月28日 日曜日
映画「鬼滅の刃」のポスター
遅ればせながら「鬼滅の刃」を観ました。原作は吾峠呼世晴(ごとうげ こよはる)さんの同名マンガです。
子供から大人まで幅広い年代層と、普段映画はそれほど見ないという層にまで支持された結果、これまで国内興行収入首位だった「千と千尋の神隠し」を抜いたという事実に結びついたわけで、そこまで惹きつける魅力とは何か、特に大人も大泣きするというところが気になっていました。
コロナ禍にあって、多くの市民が健康や経済的な不安でいっぱいの時に、政府は選挙で特定の政党に有利になるような大々的なキャンペーンには巨額の支出をするのに、多くの弱い立場の人々に対する支援は手薄だったり、先進国とは言えないような世の中の有り様が、この作品がヒットした背景にあるような気がしました。
物語の中で、鬼とは自分の事だけを考える上昇志向をもつ存在として、人間は自分以外の者のことだけを考える上昇志向を持つ存在として描かれており、単純な構造のように思えるのですが、実は鬼も元は人間で、鬼にならない選択肢もあった、つまり、悪は最初から悪ではないというところが重要なポイントになっています。
作品後半で鬼のリーダーと、人間のリーダーが戦うシーンで、鬼が「お前も鬼になれば、人の持つ悩み、弱さも全てなくなる」という言葉に、人間のリーダーが「お前たちとは価値観が違う!」と何度も叫ぶシーン、そして、その価値観は人間のリーダーが子供時代に亡き母が説いてくれたものであるという回想シーンは胸に迫りました。
物語の中で鬼に人間は勝てませんでした。でも、自分の持つ力は他者のために使う(利他主義)という価値観は守り通しました。
この価値観で測った時に、果たして私たちは自分を人間と呼べるのか。多くの大人たちが涙したのはこの点にあると思いました。

2021年3月16日 火曜日
「スマホ脳」の表紙
新潟日報に様々な依存症に苦しむ人たちを特集した記事が2021年1月から数回にわたり連載されました。依存症といえば、薬、お酒、ギャンブル、セックスなどが代表的なところですが、最近ではオンラインゲームを日常生活に支障が出るほど続けてしまうゲーム依存症も社会問題化しています。これらはいずれも本人の努力だけでは回復することが難しく、医療的、社会的サポートが不可欠であることが認知され始めたところですが、スウェーデンの精神科医アンデシュハンセンさんは、その著書「スマホ脳」で、スマホへの過度な依存が脳に与えるショッキングな影響を報告しています。本書はスウェーデンで出版され、世界13カ国以上で翻訳、日本語版も22万部を超えるベストセラーとなっています。
2013年に放送されたNHKスペシャル「病の起源」では、進化の過程で危険を回避する(生命を守る)行動をとるためにできた「偏桃体」が、過度のストレスを受けると機能不全を起こし、脳が萎縮して「うつ病」を発症するメカニズムを解説していましたが、同じように「スマホ依存症」も、危険をいち早く察知するため、一つのことよりも複数の対象に関心を分散させるように進化してきた脳の機能が、現代の環境に適応できずに不具合を起こすことがあり、それを加速させているのがスマホだというわけです。
スマホに依存すると30〜50代の働き盛りでも、もの忘れが激しくなり判断力や意欲も低下、器質的には前頭葉の血流の減少が観察できるといいます。原因としてはスマホから文字や映像などの膨大な情報が絶えず流入し続け、情報処理が追いつかなくなる「スマホによる脳過労」「オーバーフロー脳」が原因と考えられ、これが一時的なものか、認知症の初期症状なのか医学会では議論が始まっています。
iPhoneやiPadを世に出したスティーブジョブズは、スマホの依存性や悪影響を認識し、自身の子供にはiPhoneもiPadも与えなかったそうです。日本でも東北大学から、スマホの使用時間が長い子どもの大脳に発達の遅れが見られると論文発表がありましたが、スマホの料金値下げやClubhouseなど新しいSNSの話題だけでなく、明らかになりつつあるスマホのリスクと対策もメディアは取り上げるべきだと思います。

2021年3月27日 土曜日
「国語ゼミ」の表紙
佐藤優さんの著書「国語ゼミ AI時代を生き抜く集中講義」を読みました。
本書は、文章の正確な読解をベースとした、論理的思考力や表現力、批判力、判断力を「国語力」と称し、それが子供だけでなく大人も欠如していることを指摘して、AI時代が到来するこれからに必要な「国語力」を養う佐藤流の勉強法が紹介されています。
基礎編として中学教科書で「読む力」を、応用編として古典を読んで「類推する力」を、そして実践編として「読む力」から「思考する力」を、ステップ形式で練習問題を解きながら「国語力」を身につけられるように構成されています。
まず基礎編として読む力ですが、これは長文を要約する力でもあるわけです。要約を行う際に、抜き出してつなぎ合わせるだけでは、些細だけれども重要なポイントがどうしても抜け落ちてしまいます。なので、まず重要だと思われる部分を抜き出した後に、その些細な部分を補足して「再構成」することで、はじめて本当の意味での要約が完成すると佐藤さんはいいます。
読む力に関して、もう一つのポイントは、わかりにくい概念などを自分の言葉にして(自分で意味の分かる表現に改めて)説明することが大切で、要約するという作業をするにあたっては、これも同時にしなければ意味がない。つまり、自分で理解し、説明できなければダメだというわけです。
さて「基礎編、教科書で読む力を養う」を要約してみましたが、どうでしょう?基礎編だけでも、なかなか難しく感じます。
以前、その雰囲気が好きで、済生会新潟第二病院眼科勉強会に参加していました。ここでは医療職だけでない、さまざまな分野の人が毎回異なったテーマで講演し、後半は講師を囲んで質問や感想を述べる機会が参加者全員に与えられる、全く無償の稀有な勉強会でした。主宰の安藤医師は勉強会の後必ず講演要旨と、ご自身の総評をまとめたメールを送ってくださり、的確にまとめられた文章に感心したものです。しかし、この勉強会で学んだもっとも大きいことは「何のための勉強か」ということです。
佐藤さんは「実践編、総合知に対する博識」で、AIは原理的に意味を理解する事に限界があり、したがってAI時代には類推することの先にある共感力が重要になる。そして、断片的な知識を相互に関連させて体系的な論や物語に組み上げた「総合知」を、生きる事に生かす、すなわち自分の能力を他者のために使うことが大切であると説きます。
前出の勉強会は多くの人を感化し、参加者の中にある肯定的な力を引き出し、私や他の参加者の成長を手助けしました。これこそが勉強する意味であり、佐藤さんがいう、総合知を生かすことなのだろうと思いました。ただ、佐藤さんの「類推することの先にある共感力」という論には疑問があります。人が他者に対して共感できるのは、同じ経験をしていることが絶対条件で、類推の先にあるのは理解ではないかと思うのです。

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