2021年7月、8月、9月分の日記です。
2021年7月10日 土曜日
「病理医が明かす死因のホント」の表紙
2007年6月26日、愛知県犬山市にある時津風部屋の宿舎で当時17才の時太山(ときたいざん)本名、斎藤俊さんが亡くなった事件がありました。遺体に不審な点が複数あったことから新潟大学で承諾解剖を実施したところ、初見の医師の診断(虚血性心疾患)は誤りで多発性外傷性ショックが死因であったことが判明し、親方と兄弟子による集団リンチ殺人として刑事事件になりました。
この時、法医学者として解剖を担当された先生がコーディネートされた医学部生の生命倫理の講義に参加して、夕食までご一緒させていただいたことがあるのですが、滅多に聞けない話が実に興味深く、解剖を行わないことで見逃されてしまう犯罪も実は相当数あるのかも知れないと思いました。
医学の中でも法医学はテレビドラマでなんとなく知っている人もいるでしょうが、一般診療科ではないので身近な感じはしないと思います。法医学は主に死体を対象としますが、やや近いと思われる分野に病理学があります。共通しているのは解剖を行うという点ですが、病理医は治療効果の評価をするという意味で亡くなった人の解剖も行いますが、主な仕事は解剖ではなく患者さんの検体を顕微鏡で観察して診断を行うことにあります。がんなどの悪性度の判定は病理医が行っており、その診断結果はその後の治療方針を左右します。つまり、病理医は亡くなった人の解剖も行うけれど、主に対象としているのは生きている人、患者さんということになります。
さて、今回紹介する榎木英介さんの著書「病理医が明かす死因のホント」は、病理医としての立場から、病理医という職業の解説に始まり、死に至る様々な病気のメカニズムを、主な臓器の症例について詳細に解説しています。そこに、がんや突然死、感染症といった臓器をまたがる病気の死因の分析や検証も盛り込んでいます。また「老化」という高齢者特有の現象と単に流されがちなメカニズムについても関係する学説を紹介しながら、科学的な視点でアプローチしています。さらに、最近の大きな話題である新型コロナウィルスの感染拡大を例に挙げ、病理解剖が果たしている役割と、そのコロナ下で仕事に打ち込む病理医や臨床検査技師の奮闘ぶりにも触れています。その中で、感染症に対して設備面で病理医への感染防止対策が十分でない病院の現状などを指摘した上で、病理医が圧倒的に不足していることや教育体制が進んでいないといった事にも言及しています。
誰もが、死ぬまでは健康で自立した生活をしたいと思っています。しかし、誰も死を避けることはできません。前出のような事故や事件、自殺を除けば、人は病気で亡くなります。老衰死もありますが、本書によれば、死後解剖をすると何らかの病気が見つかることが大半だそうです。
自分はどのように死んでいくのだろうと、近未来の自分の事として読めるとともに、儚い存在としての人間が愛しくなり、死に対する気づきを与えてもらった一冊でした。

2021年7月10日 土曜日
新型コロナワクチン接種会場
7月10日午後、ハイブ長岡で新型コロナワクチン、コミナティ(ファイザー製ワクチン)の1回目を接種しました。
長岡市で65才以上の人の接種予約が始まった当初は、開業医で打ちたいと希望する人が多く、朝から何度電話しても話し中。それではというので直接行ったら受付は電話のみと断られ、やっと電話がつながったと思ったら受付終了しましたと言われる。集団接種を希望するもネットは使えない。電話はいつも話し中。つながっても自動音声応答がわからない。接種番号の文字が小さく読めない。誕生日を西暦でと言われても...。という具合で、私は何人か予約代行を請け負いました。(もちろん無償です)
市役所が接種日を指定する方法を採用した上越市などでは混乱もなくスムースにいったようですが、高齢者に予約を求めるのは無理があったと思います。
さて、この日は市が指定している優先接種と長岡科学技術大学の学生および教職員の接種が重なったせいか、若い人たちが多かったです。そのためか東の正面玄関から受付に入り、予診、接種、接種後の経過観察を終えて、南の出口から外に出るまでスムースで、待ち時間は全くありませんでした。
新型コロナワクチンに関しては、mRNAがリボゾームで翻訳されてスパイクタンパクを作るということは、ヒトのリボゾームで作り出された抗原であるわけで、ここに免疫寛容という現象が起こり、スパイクタンパクが長期間体に残る可能性は否定できないという説が気になっていました。しかし、現在考えられる感染した場合のリスクと職業性、年齢を考えると接種する選択をするのが「現時点では」正しいと考えました。
短期的な副反応については、厚労省が公表しているデータによると、1回目の接種では、ほぼ接種部位の痛みだけ。2回目の接種で接種部位の痛みが90%、37.5度以上の発熱が40%、倦怠感が70%、頭痛が50%の確率で現れるとなっています。
私も副反応に備えて解熱剤(タイレノール500r)を用意しておきましたが、翌朝、注射した左肩に動かした時だけ軽い痛みがあったほか副反応はなく、同日夕方には消失しました。周囲の2回接種した人たちに聞いたところでは、おおむね50才以上の人には強い副反応は現れていない印象があります。

2021年7月26日 月曜日
「老い」のテキスト表紙
待合室に数種類の週刊誌を置いています。 表紙を飾る見出しは時事ネタが多いのは当然として、「老い方を間違えた人たち」「老いるショック」「最後に子供に頼らない、アテにしない、相談しない」「人生の最後を人に頼らず生きる準備」などなど、老いることで起こる身体的、社会的、経済的不安を記事にしたものも多く、特に男性週刊誌に多い印象があります。
日本は「人生100年時代」が到来し、平均寿命は10年前と比べるとおよそ3年延び、65才以上は人口の3割に迫り、4人に1人が高齢者という社会になりました。40才以上は介護保険の被保険者となり、親の介護、ひいては自身や配偶者の「老い」が日常の問題として人々の意識に上ってきていることが、雑誌の誌面にも反映されているのだと思います。
さて、7月の読書バラエティ番組「100分de名著」は、哲学者で作家のシモーヌドボーヴォワール(1908-1986)の「老い」でした。
ボーヴォワールといえばフェミニズムの代表作として知られる「第二の性」が有名ですが、「老い」というテーマをいち早く多角的にとらえた本作は彼女が62才の時の著作で、とても当事者性があり、それが説得力につながっていると感じます。
ボーヴォワールは「老い」とは他者から指摘されて知る、認めがたいものだと指摘し、「老い」を真正面からとらえ、医学的、社会的、あるいは歴史的見地からと、自身による老いの自覚と受容からの両面で、徹底的に論じています。
厄介者扱いされる高齢者の現実を直視し、自分は厄介者になってしまったと悲嘆する高齢者の心理を直視することだけでも先駆的な試みだったと思いますが、さらに注目すべきは、タブー視、あるいは見過ごされがちな「高齢者の性」にまで言及し、老人とはセックス欲から解放された、清らかな存在であるというステレオタイプの老人像を否定していることです。
そして、ボーヴォワールはこられの論考から「老い」は個人の問題ではなく社会の問題としてとらえるべきであるという主張をします。
「老い」とは誰もが抗えない衰えの過程であって、避けることはできません。「老い」は個人が努力で克服するものではなく、ボーヴォワールが主張するように社会の問題としてとらえるべきだと思います。厄介者になった高齢者をどう扱うかで、その社会の質が測られるといいますが、果たして日本はどうでしょうか。

2021年7月31日 土曜日
ワクチン接種会場
7月31日午後、ハイブ長岡で新型コロナワクチン、コミナティ(ファイザー製ワクチン)の2回目を接種しました。
この日は前回と違い、大学関係者の接種は無かったようで空いていました。
副反応に関しては、8月1日の朝、起床時に注射を打った左肩に少し圧痛があったほかは特になく、副反応を緩和するための第一選択薬になっている解熱鎮痛剤(アセトアミノフェン500r)も用意していましたが、必要ありませんでした。
mRNAワクチンの作用機序について気になっていた、mRNAがヒトのリボゾームで翻訳されてスパイクタンパク(抗原)を作るがゆえに免疫寛容が起こり、スパイクタンパクが長期間体に残る可能性について、いろいろ調べてみたのですが、注射された筋肉細胞の外にmRNAが運ばれてスパイクタンパクを作る可能性は低く、たとえ作られても肝臓で代謝されてしまうという説もあるということを知りました。現時点では、どちらが正しいのかわかりませんが、数年後には解決する問題でしょう。

2021年8月1日 日曜日
映画「竜とそばかすの姫」ポスター
細田守監督作品「竜とそばかすの姫」を観ました。
高知の豊かな自然に囲まれた町で、父と暮らす17才の女子高生すず。幼い頃に母を水難事故で亡くし、母と一緒に歌うことが何よりも好きだったのに、歌うことができなくなってしまいます。いつしか父との関係にも溝が生まれ、現実の世界に心を閉ざしたすずは作曲だけが生きがいになっていました。
ある日、友達に誘われて「もうひとつの現実」と呼ばれるネット上の仮想空間に「ベル」というアバターで参加することになったすず。ずっと秘めてきた曲と、比類なき歌声で瞬く間に世界中から注目される歌姫となったすず(ベル)は、ネットの中で「竜」と呼ばれ恐れられているナゾの存在に出会います。乱暴だけれども、どこか悲しい眼をした竜との出会いをきっかけに、すずは自分の中にある迷いや弱さ、亡き母と向き合っていくというストーリーです。

今も、SNSには絶え間なく誹謗中傷がアップされ、自殺にまで追い込まれる人がいたり、某市の市会議員選挙では「いくら何でも」に思える人が、ニコ生などの動画配信サービスを背景に当選してしまったり、コロナ禍で「自粛警察」のような行き過ぎた正義を振りかざす人が現れたり、クローズアップされるのはネットの負の部分が多い印象がありますが、心から共感してくれる誰かに出会うのは難しいと思っていた障害のある人が、ネット上で出会うことができ、生きる勇気を持つことができたり、災害時に被災者支援、ボランティア支援の情報をリアルタイムで発信したり、ネットでいのちを救うことができることも私たちは知っています。
今や、ネットは私たちの自由や幸せに深く関与するようになったと実感します。こんな世界で、生まれた時からネットがあった若い世代が感じている自由や幸せというのは、もはや20世紀生まれの人間とは変わってきているのかも知れないし、これから「老い」を迎える世代にとっても、ネット上のゆるいつながりは、生きる上で力になると本作を観て思いました。

2021年8月30日 月曜日
「生贄探し」の表紙
認知科学者の中野信子さんと、漫画家のヤマザキマリさんの共著「暴走する脳、生贄探し」を読みました。
これまでにも中野さんの著書は何冊か紹介していますが、認知科学に進化医学的な考察を加えて、いじめが無くならないメカニズムを解説した「ヒトはいじめをやめられない」では、いじめとは種を保存するために本能に組み込まれたものであるので、いじめは必ず起こりうるという前提のもと、集団の結束を強め過ぎず適度な距離を取る、人間の多様なあり方を認めることが、いじめの撲滅は無理でも、減らすことにつながるという内容でした。
今、コロナ禍にあって「自粛警察」「コロナ差別」など、誰かをまるで生贄のようにして叩きたがる人が増えています。この異物を排除しようとするかのような現象は、なぜ起こってしまうのでしょうか。本書でも、そのメカニズムを認知科学をベースに歴史、宗教などを絡めつつ、時代や地域を横断的にとらえて解説しています。
本書でも興味深い脳(認知機能)の特徴が紹介されており、例えば、いじめのメカニズムでもある、自身を正義と信じている時、ヒトはどこまでも残虐になれてしまう。集団にとって都合の悪い個体を見つけ出し、排除する仕組みが備わっている。また、他人の不幸に思わず喜びの感情が湧き上がってしまうなど、負の感情を日本人は持ちやすい。さらに、日本人は外国人よりも顕著に「スパイト行動」(自分が損してでも他人をおとしめたいという嫌がらせ行動)をしてしまう傾向があるといいます。これは、よく言われる日本人の親切さ、礼儀正しさ、真面目さ、協調性が、実はスパイト行動で自分が生贄として攻撃されないための同調圧力によるものだというのです。たしかに、駅のホームで白杖を持っている人に声かけをする人が少ないのは、そこに同調圧力がないからだと考えると納得がいきます。
では、自分が生贄にされないためにはどうしたらいいのでしょうか。まず、スパイト行動をとる人が多い環境をなるべく避ける。もし離れられない場合、相手の妬みを憧れに変え、自分を生贄にするよりも、生かして仲良くしたほうが得だと思わせられるようになるまで、自分を磨くことだと中野さんはいいます。なかなかハードルの高い処方箋です。
でも、私たちが、まず意識しなければならないことは、自分が「生贄探し」をしないことでしょう。それに対する処方箋として、ヤマザキさんは、想像力の欠如がヒトを危険生物化すると指摘して、SNSなどから発信される言葉に簡単に便乗しないで、自分の考えを自分の力で言語化すること、つまり、想像力をもつこと。これは本来こうじゃなきゃいけない、こうあるべきだという思い込みや、価値観の共有の押しつけをしないことが大切だといいます。
パンデミックや自然災害が起こると普段にも増して、特別な仕事に従事する人、一般的ではない振る舞いをする人が生贄にされてきた歴史があり、1万年前からヒトの本質は変わらないのだと聞くと、なんだか怖いですが、生贄にされる側と生贄探しをする側、私たちは、どちらにもなりうることがよくわかりました。日本独特の世間体や同調圧力で生贄探しをしてはいないか、たまには考える必要があると思いました。

2021年9月11日 土曜日
「毛深い闇」の表紙
園子温(その しおん)さんの小説「毛深い闇」を読みました。
愛知県豊川市で発見された、眼の角膜をはがされた少女の死体。豊川署の刑事の娘、切子は母親より早く事件の核心に迫ろうと、悪魔画廊の謎を探ろうとします。ある冬の深夜から朝までの物語です。
園さんは詩、小説、映画、さらにはストリートパフォーマーとしても活躍する鬼才として有名ですが、彼の作品では映画「エクステ」「冷たい熱帯魚」しか観たことがなく、文学作品に触れたのは今回が初めてでした。
高橋源一郎さんと村上龍さんが腰帯を書いており、「扉の向こう、広がる闇のいちばん奥に、確かにいるのだ。”それ”が!」「都市より地方の、殺人鬼より少女の、闇が、深い。」と高橋さん、村上さん、それぞれの書評と、タイトル、画家、篠原愛による装丁とがあいまって、なにやら妖しい雰囲気にゾクゾクするようなミステリーを想像していましたが、読み進むうち、ちょっと違うと感じはじめ、読み終える頃には、この作品で作者が表現したかったことは何か、考え込んでしまいました。
エキセントリックな主人公とストーリー展開ではあるものの、心の闇を抱えた17才女子が、それと真正面から向き合うことで、未来を生きていく手がかりをつかむ物語として私は読みました。ただ、高橋さんがいう「それ」とは何か、いまだに考えています。

2021年9月12日 日曜日
映画「先生、私の隣に座っていただけませんか」のポスター
堀江貴大監督作品「先生、私の隣に座っていただけませんか?」を観ました。
結婚5年目子供なしの人気マンガ家、早川佐和子は、夫が自分の若い担当編集者と不倫をしている事実に気づき、ある新作マンガを描き始めます。それは夫の不倫と、それを知ってから出合った自分の新たな恋愛を赤裸々に描いた、不倫がテーマのマンガでした。その原稿を読んだ夫は不安と疑念に駆られていき・・・。というストーリーです。
不倫モノというと昼メロが定番で、ドロドロした人間関係をシリアスに描くイメージがあります。本作でも佐和子は夫の不倫に気づいていることや自分自身の不倫についてをマンガには描くけれど、夫に面と向かって言わない。しかも夫にそれを読まれるのをわかっていて、わざと机に原稿を置いておくという、夫の不倫に対して陰湿に復讐していくという点ではスリリングな展開で昼メロ要素満載でした。しかし、自分が不倫しておきながら、奥さんも不倫していることがわかった途端、焦って右往左往する夫の情けなさや、マンガは自分たちのことだとわかりながら「これ、面白い!連載したい!」と言い出す不倫相手の若い編集者のあっけらかんとした態度が笑いにつながって、コミカルな印象が強い作品でした。ラスト5分のどんでん返しに世の男性陣はため息を付くこと間違いなしです。

2021年9月25日 土曜日
「現代優生学」の脅威の表紙
東京オリパラ2020のキャッチコピーにも使われた「多様性を認める社会」。よく耳にするキラーフレーズでありながら、これの何がそんなに大事なのか、多くの人には実感がないのではないかと思っています。
障害者も社会を構成する一員だとしながらも雇用率は30年前と変わりません。(法定雇用率はわずかに上がりました)これは多様性が大事なのはわかるけど、自分のデスクのとなりには居てほしくないということの現れなのでしょう。2016年に起こった「相模原障害者施設殺傷事件」は、こうした社会の有り様がもっともドラスティックに現れた事件だったと思います。ネットでは犯人の思想に理解を示す意見も多かったことが印象に残っていますが、異質な外見や異なる内面を持つ人を、執拗に排除しようと叩き続ける風は今も止んでいません。
今回紹介する池田清彦さんの著書「現代優生学の脅威」は、この風がなぜ止まないのか、その原因の一端を科学の立場から「優生学」を切り口に論考しています。
これまで人類は、優生学的な思想により障害者や移民、ユダヤ人といったマイノリティへの差別や排除、抹殺を繰り返してきました。日本ではハンセン病患者の隔離政策がその典型といえるでしょう。本書は、
第1章 甦る優生学
第2章 優生学はどこから来たのか
第3章 ナチス・ドイツの優生政策
第4章 日本人と優生学
第5章 無邪気な「安楽死政策」待望論
第6章 能力や性格は遺伝で決まるのか
第7章 “アフター・コロナ”時代の優生学
という構成で、現代的な優生学の広がりに大きく関わっているのが、科学の進歩や経済の低迷、パンデミックであるとし、優生学の現代的な脅威を論じています。
高度な社会の実現を目的に、優秀な人間の血統のみを次世代に継承し、劣った者たちの血筋は断絶させるか、もしくは有益な人間になるよう改良する。こうした「優生学」の研究に強く影響されたナチスは、障害者の断種やユダヤ人の大量虐殺を決行しました。戦後、その反省から優生学の研究はタブーとなったはずでした。しかし、近年、中絶を助長する出生前診断や重度障害者や終末期の高齢者への支出削減の動きなど、優生学的な傾向を持つ考えが多方面で顕著になりつつあり、こうした潮流は、旧来の優生学から離れ「生産性のない人間を直接淘汰する」という過激な方向へ向かいつつあると池田さんは指摘します。
優生学の歴史を振り返り、コロナ禍で一層顕著になりつつあるこうした「現代優生学」の危険性を考えさせられました。

2021年9月26日 日曜日
映画「空白」のポスター
吉田恵輔監督作品「空白」を観ました。原作のない映画オリジナル脚本です。
舞台は地方の漁師町。スーパーの化粧品売り場で万引き現場を見られて逃走した女子中学生が若い店長に追いかけられ、不用意に国道に飛び出し乗用車にはねられ、倒れたところを後続のトレーラーにひかれ、無惨な死亡事故が起きてしまいます。
普段は娘のことなど無関心だった女子中学生の父親(頑固な漁師)は、「俺の娘が万引きなどするわけがない!!」とスーパーの店長を激しく追及するうちに、その姿も言動も恐るべきモンスターと化し、事故に関わった人々を追い詰めていきます。一方、事故のきっかけを作ったスーパーの店長、乗用車ではねた若い女性ドライバーは、父親の圧力にも増して加熱するテレビのワイドショー報道によって混乱し、自己否定に追い込まれていきます。女子中学生の母親、クラス担任、スーパーの従業員まで巻き込んで、この事件に関わる人々の疑念が増幅していくという展開です。
本作は、現代における人と人のつながりや家族の絆、メディアの正体を浮き彫りにし、何が真実なのか、誰が正義なのか、など思わぬ方向に感情が増幅してしまう危険性をはらむ現代社会を描いています。
登場人物たちが愛情と憎悪の果てに、全員が加害者であり被害者でもあるという様相を呈していく様を観ていると、自分も似たような思いをしたことがあったと、過去を振り返った人も多かったのではないでしょうか。

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