2021年10月、11月、12月分の日記です。
2021年10月3日 日曜日
映画「護られなかった者たちへ」のポスター
瀬々敬久監督作品「護られなかった者たちへ」を観ました。
瀬々監督の作品では2009年公開の「感染列島」2017年公開の「友罪」2019年公開の「楽園」を観ていますが、いづれも現代社会が抱える様々な問題を平場に落とし込んだ社会派ミステリーの傑作で、その手腕は本作でも健在でした。

公衆トイレで生まれ落ち、そのまま置き去りにされ養護施設で育った青年、利根。心無い人に自身の出自を聞かされ、以来トイレの水洗の音に恐怖を感じるようになった。
水商売の母親と二人暮らしの小学生、幹子。深夜に帰った母に、酒とタバコと男の臭いにまみれた体で抱きつかれるのが嫌だった。
遠島けいは夫のDVが原因で離婚。幼い娘を里子に出して再婚したものの、夫は病気がちで生活は苦しく、年金保険料も払えないまま老いて、夫は亡くなり一人暮らし。
笘篠は宮城県警の刑事で、妻と小学生の息子の3人暮らし。
この4人を結びつけたのは2011年に発生した東日本大震災でした。
笘篠は妻と息子を、利根は友人を、幹子は母親を津波で亡くし、避難所になった小学校の教室で利根と幹子、遠島は出合います。遠島は幹子と利根を古い自宅に招き、利根と幹子の人生をいたわるように、温かいうどんを食べさせ、母を失った悲しみに打ちひしがれる幹子を抱き寄せました。避難所の混乱を離れ、地震の傷跡が生々しい家の中で、不思議に柔らかい調和のとれた時間が過ぎていきました。3人はしばらく一緒に暮らしますが、利根は栃木県に仕事を見つけ、幹子は叔母と暮らすことになり、それぞれの人生を歩みだします。
数年が経ち、利根と幹子は遠島の家で再会を喜びますが、遠島が食べるにも困っていることに気付いた利根は、遠島に生活保護を申請するようすすめます。最初は「他人の世話になりたくない」と渋っていた遠島でしたが、「けいさんに生きていてほしいんだ」という利根と幹子に説得され、3人で福祉事務所に出向きます。なんとか申請は受理され安心した利根と幹子でした。しかし、しばらくして自宅で餓死した遠島が発見されます。不審に思った利根が福祉事務所に問い合わせると、遠島が生活保護を断っていたことを告げられます。「そんな!けいさんが断るはずがないだろ!」利根はいたたまれない気持ちになり、ある行動にでます。
そして、2020年。仙台市内で全身を縛られたまま放置され、餓死させられるという凄惨な連続殺人事件が発生します。被害者はいずれも他人から恨まれるような人ではない「いい人」という評判の男たちでした。刑事の笘篠は、2つの事件には共通点があることに気付きます。それは、数年前、二人が同じ福祉事務所で生活保護を担当していたということでした・・・。

本作は、東日本大震災の復興とその影、生活保護の水際対策や不正受給のほか、社会の矛盾や問題もたくさん内包されており、ミステリーの枠を超えた重厚な人間ドラマが見どころの作品です。
物語の最後、遠島の家のふすまに書かれた、遠島の最後の言葉に涙があふれました。

2021年10月17日 日曜日
写真展「生死をあきらむる」
新潟市在中でステージ4の乳がんを患う司会業の谷藤幹枝(やとう みきえ)さんが、手術前、左乳房を全摘出した術後の姿など、がんの告知から5年間の軌跡を自らを被写体とした写真でたどるという企画の写真展「生死をあきらむる」を鑑賞しました。
谷藤さんは2016年10月、47才の時に新潟市民病院で乳がんの告知を受け、2017年1月に手術を受けるも、2018年2月に骨転移が認められ、ステージ4の診断を受けます。そして、同年4月に子宮、卵巣摘出手術を受けるという経過をたどり現在に至っておられます。
写真は、谷藤さんが新潟大学で美術を専攻されていたこともあり、胸を失う前の姿をきれいに撮ってもらったことがきっかけで(左の写真)、当初は乳房の再建術を受けた後に、希望を感じるストーリーのあるアート作品として写真展を開くつもりでいたそうです。しかし、骨転移がわかって「死が目の前にぶら下がっている」状態となって仕事の依頼もなくなり、精神的に追い詰められたこともあったけれども、生存5年目の未完のストーリーとして開いたということでした。
写真展は、告知(手術前)、手術後、骨転移後という三つの時期を中心に約30点が展示されており、今回メインとなった、それぞれの時期に装飾は付けず、右横を向いて目線を少し下に向けた同じポーズで撮られた3枚の大きな写真が印象的でした。特に手術後の写真は、穏やかな表情と左腋下から胸骨にかけて生々しく残る手術痕のコントラストが、生きる覚悟を堂々と語っているようでした。
この日は谷藤さんと撮影者である岩橋由希子さんのトークイベントも開かれており、小さな部屋は満員で、私は開いた入口の壁にもたれて聴いていました。
ギャラリー参加型であったため、話題があちこちに散らばって、谷藤さん、岩橋さんの心の深淵に迫るような話しにはなりませんでしたが、健康ランドのお風呂には、わりと平気で入れるのに、顔見知りがいるかも知れない地元に近いスーパー銭湯には入れないという谷藤さんの葛藤は私も共感できました。また、2016年にこのコーナーでも取り上げた伊勢みずほさんの著書「”がん”のち晴れ」で紹介されている、「キャンサーギフト」という考え方について、最初は共感でなかったけれど、今はそう思えるようになったと谷藤さんは語られましたが、なぜ共感できなかったのか聴いてみたいと思いました。
写真展、トークイベント全体を通して感じたのは、がんによる肉体の苦痛は厳然としてあるのだけれども、ここで語られたような心の痛みや、自分からも隠したいほどの恥ずかしさといった自己否定的な感情は、個人の内にではなく、個人と世の中の関係性の中に生まれてくるものであって、その関係性を良いものにするための働きかけとして、言葉を尽くすのもいいけれど、一枚の写真が語る力はすごいということです。
今回の写真展のテーマ「生死をあきらむる」とは曹洞宗の開祖である道元禅師の教えであり、生まれるということ、生きているということ、死ぬとはどういうことかをあきらかにするという意味ですが、能力主義が台頭する世の中にあって、「ただ、生きている」ことの大切さを改めて思いました。



Mさん、 お元気ですか。あなたのことは忘れていません。

2021年10月31日 日曜日
映画「そして、バトンは渡された」
前田哲監督作品「そして、バトンは渡された」を観ました。原作は瀬尾まいこさんの同名小説です。前田監督の作品を観るのはは2018年12月公開の「こんな夜更けにバナナかよ」以来ですが、現在公開されている「老後の資金がありません!」も前田監督の作品で、同じ監督の作品が同時公開になるなんて珍しいことです。

主人公の「森宮優子」。生まれたときは「水戸優子」でしたが3回苗字が変わり、高校生である現在は「森宮優子」となり、義父である「森宮さん」と二人暮らし。森宮さんは東大卒の上場企業勤務で料理が得意。不安ばかりな将来のこと、うまくいかない恋や友人たちとの関係に悩みながらも、卒業式で弾くピアノの練習に励む優子を、森宮さんは父親として暖かく見守ります。
主人公の「みぃたん」。みぃたんは物心がつく前に亡くなった母を写真でしか知らず「ママはいつ帰ってくるの」と聞かれる度、父親は娘が可哀そうでたまらなくなります。そんな時、親子に近づいてきたのが父親の働くチョコレート工場の同僚「田中梨花」でした。梨花は奔放でお洒落。料理などまったくできませんでしたが明るい女性で、みぃたんをとても可愛がり「私みたいなママがいたらうれしい?」と聞く梨花に、みぃたんは笑顔で頷くのでした。ほどなくして父親は梨花と再婚しますが、長年の夢を実現したいから家族でブラジルに行きたいと言い出します。みぃたんと日本に残りたい梨花と、梨花は仕方ないにしても、みぃたんは連れて行きたい父親。みぃたんは梨花が大好きなことと、小学校の友達と別れたくない思いもあって梨花と日本に残ることを選びます。ここからの二人の暮らしは楽ではありませんでしたが、父親を恋しがるみぃたんに、梨花は精一杯の愛情を注ぎます。
物語が進むうち、優子、みぃたん、梨花と森宮の関係があきらかになり、ラストシーンでバトンの意味がわかると、気持ちが暖かくなって涙があふれました。
愛情を注がれるのは幸せなこと。けれど、愛情を注ぐのも同じくらい幸せなことなのでしょう。
観た後に残る幸せな余韻も、きっとひとつのバトンなのだと思いました。

この作品を観て、70年代に民放のテレビ局で放映されたドラマ「グッドバイママ」を思い出しました。事故死した恋人の子供と暮らすシングルマザーが、自身も再生不良性貧血に冒され1年の余命しかないことを知り、残される子供のために父親探しをするという物語です。
主題歌、劇中歌にジャニスイアンのアルバム「AfterTone」が使われており、主題歌になった「Love Is Blind」は美しく切ないメロディラインが印象に残って、今でも好きな曲です。

2021年11月18日 木曜日
無理ゲー社会の表紙
新潟日報朝刊に不定期で連載されている雨宮処凛(あめみや かりん)さんの連載「生きづらさを生きる」を愛読していますが、ここ何年間か「生きづらさ」という言葉がよく聞かれるようになったと感じます。これまでは「世の中なんてそんなもんさ」とあきらめていたことに、少しだけれども市民の目が向くようになったからかも知れません。一言で「生きづらさ」と言っても、その内容を一つ一つ見ていくと様々な要因があるわけですが、個々にある問題の背景には社会のあり方も大きく関わっていることを私たちは感じています。
作家の橘玲(たちばな あきら)さんは著書「無理ゲー社会」で統計データや社会学などの論文を緻密に分析し、私たちが漠然と感じる「生きづらさ」の背景を論じています。無理ゲーとは攻略不可能なオンラインゲームのことで、本書では人生の攻略難易度(生きづらさ)が極端に上がった社会という意味で使われています。

本書は、 はじめに 「苦しまずに自殺する権利」を求める若者たち
PART1 「自分らしく生きる」という呪い
PART2 知能格差社会
PART3 経済格差と性愛格差
PART4 ユートピアを探して
エピローグ 「評判格差社会」という無理ゲー
あとがき 才能ある者にとってはユートピア、それ以外にとってはディストピア

という構成になっており、まず、PART1 「自分らしく生きる」という呪いで、リベラル化が進んだ現代社会の構造を論じています。
ここで定義するリベラルとは、政治的イデオロギーのことではなく、「自分の人生は自分で決める」「すべての人が、自分らしく生きられる社会を目指すべきである」という自由を重視する価値観のことで、1960年代のアメリカで生まれ、またたく間に世界中に広まり、日本でも当然のこととして認識されています。この理想はもちろん素晴らしいことですが、光があれば闇があるように、現実には「自分らしく生きられない」と生きづらさを訴える人が急激に増加しています。
リベラルな社会においては、私たちは自由な選択にのみ責任を負うべきで、責任のないところに自由はない、これがリベラル社会の基盤です。なので「今、あなたが生活に困っているのは、あなたの自由意志で選択した結果なので、責任はあなたにありますよね」という帰結になるのは仕方ないというわけです。つまり、「生きづらさ」は社会がリベラル化したことと強い因果関係があるということです。
この事がベースにあって「自分らしく生きられない」人が増えている要因を、PART2 知能格差社会、PART3 経済格差と性愛格差で論じています。
PART2 知能格差社会では、リベラルな社会では人種、性別、年齢など、本人が選択できない属性による選別では差別になるため、本人の努力によって向上できる学歴や資格などで選別する能力主義(メリトクラシー)が採用されます。しかし、行動遺伝学が半世紀以上にわたって積み上げてきた科学的ファクトによれば、知能の遺伝による影響は大きく(努力できることも知能のうち)、教育は生得的な違いを拡大させることになり、社会は知能によって分断されてしまうというわけです。
PART4 ユートピアを探してでは、まず資本主義の基本的な構造を、未来を先取するタイムマシンになぞらえて説明したあと、富の分布について、戦後は正規分布で中間所得層が最も多いが、時間の経過と共にベルカーブは崩れ、ロングテール(ベキ分布)と呼ばれる大多数の低所得層と少数の高所得層に分かれてしまう必然性を説きます。そして、戦争、革命、統治の崩壊、疫病で、権力者や富裕層が富を失って社会がリセットされれば、再び世界は平等になると結論付けます。

あらゆる機会を平等にし、誰もが自分らしく生きられる社会を創っていけば、誰もが幸せを享受できる世界になると思っていたのに、急速なテクノロジーの進歩を背景とした「リベラル化」「知識社会化」「グローバル化」が経済格差を助長させ、目の前には頼りなく豊かで分断された世界が広がっているように思えます。
本書ではあまり触れられていませんでしたが、日本ではリベラル化の副作用のほかに「超高齢社会」の現実があります。高齢世代を支えるためには現役世代が負担するしかなく、若い世代は自分たちを「犠牲者」だと考えるようになっています。2025年には団塊の世代が後期高齢者となって、若い世代の負担増は必至で、追い詰められる人がさらに増えるのではないかと思います。
本書は今、世の中で起こっている、あらゆる負の事象を的確に説明してはいましたが、どうすれば「生きづらさ」から解放されるのか、その答えは書かれていませんでした。だから、私の知能では無理かも知れませんが、考えるしかありません。

2021年11月29日 月曜日
小説「あたなをずっと、さがしてた」の表紙
蘇部健一(そぶ けんいち)さんの小説「あなたをずっと、さがしてた」を読みました。本書は「あなたをずっと、さがしてた」と「四谷三丁目の幽霊」の二編が収録されています。
興味をひかれたのは、この作品が期間限定で全文公開した後に、作品のタイトルを読者から募集して付けたというところで、手に取った本をレジにもっていくかいかないか、タイトルや装丁はそれを左右する重要な要素だと思いますが、それを読者に丸投げするという発想が面白いと思いました。

物語は、ありふれた朝の情景から始まります。女子大生の奈子は、通学途中の橋の上で、ひとりの男と出会います。その日、奈子が着ていたミニーマウスのTシャツと、まるで対になるようなミッキーマウスのトレーナーを彼は着ていました。その彼が近いづいてくると、息をのむほど整った容姿をしていることに気づいて頬を赤く染める奈子でした。その後も何度か同じ橋の上で彼とすれ違ううちに芽生えた恋心を、奈子はファミレスのバイト仲間で親友の葵に打ち明けます。すると、葵は奈子が彼と知り合えるよう協力するとはしゃぎます。葵は独自にリサーチを進め、持っている教科書などから彼が大学生ではないかと予想を立てます。学年末で大学が休みに入る前に、奈子が彼をデートに誘う段取りを考える葵。そして決行の日、彼はいつもの橋の上に姿を見せませんでした。この後も毎日同じ時間に彼を待ってみたものの、現れる気配はなく、あきらめかけていた奈子でしたが、葵がネットで彼が投稿したと思われる短編小説を発見します。おどろいたことに投稿者の名前は「ミッキー」で、毎朝、橋の上で出合う女性に心を奪われてしまった主人公が、事故にあってしまい、思いを告げられないまま、今も彼女を慕っているという物語で、奈子と彼でなければ知り得ないようなシチュエーションが描かれており、奈子は小説の中の女性は自分のことだと思わずにはいられませんでした。これを手掛かりに奈子は彼と再会できるのか。そして、その先に待っている驚愕の真実とは!
テレビ番組の「世にも奇妙な物語」になりそうな恋愛ミステリー小説でした。

本作はラスト1行に命をかけたというミステリー小説です。東野圭吾さんの作品などでも思うことですが、たしかに結末の意外性がミステリー小説の醍醐味であることは、その通りだと思うのです。しかし、リアルな世界ではあり得ないようなトリックやギミックはいかがなものかと思うのです。私は本当に現実に起こりそうなリアルな物語を求めてしまうのですが、この話を知人にしたら「現実逃避をしたいからミステリーを読むのに、リアリティなんて必要ない。」という返事が返ってきて、なんだか納得してしまいました。

2021年12月15日 水曜日
「物理学者、SF映画にハマる」の表紙
テレビドラマ「日本沈没」が12日の放送で最終回でした。SF好き、小松左京好きとしては社会的にタイムリーだと思われる「復活の日」もぜひドラマ化してほしいところです。
私は、現在の科学による知見をベースにしつつも、少しだけフィクションの要素を加えてリアリティを持たせたSF作品が好みで、エンターテインメントとしては勿論ですが、そこを出発点として、リアルな科学の世界に眼を向けることで、その面白さに気付くことができることもSF小説、映画の楽しさのひとつだと思います。ただ、さすがに数式や化学式がメインになってしまっては難しすぎるので、私は中学生レベルの知識で楽しめる雑誌「Newton」や「日経サイエンス」などで、SFと地続きの感覚で科学の世界も楽しんでいます。
今回紹介する高水裕一さんの著書「物理学者、SF映画にハマる 時間と宇宙を巡る考察」は、SFをフィクションとして切り離してしまうのではなく、SFは人間がもつ想像力であり、そこから未来の可能性が広がることもあるという、科学の目で楽しむSF映画というスタンスをとっており、SF好きとしてはタイトルだけで即買いしてしまいました。
本書は劇場公開されたSF作品を科学的な目線で読み解く内容で、取り上げられている作品は、

時間をテーマにした作品
・バック・トゥ・ザ・フューチャー
・デジャヴ
・テネット
・ターミネーター
・ヒーローズ

宇宙をテーマにした作品
・ゼログラビティ
・ファーストマン
・オデッセイ
・インターステラー
・スターウォーズ
・メッセージ
・V
で、私はすべて観ています。

現在、民間人の前澤友作さんが国際宇宙ステーション(ISS)に滞在していることが話題になっています。2021年11月26日放送のNHK総合テレビ「チコちゃんに叱られる」で、ISSがある地表から400キロの場所は無重力ではない(重力は地表の88パーセント)という話題をやっていたのですが、本書でも「ゼログラビティ」の解説で同じ内容を取り上げています。しかし、両者でISSが無重力空間になるメカニズムの解説が違っています。本書では秒速8キロで地球の軌道を周回するISSには非常に強い遠心力が働いて、無重力空間を再現しているという説明に対して、チコちゃんの解説は、ISSが秒速5mで落下していること(遊園地のフリーフォールで体が浮く現象と同じ)が原因であるとしています。
どちらも第一線の学者さんが解説しているのですから間違っているはずはありません。では、なんで違うことを言っているように聞こえるのか。これを考えることが楽しいのです。

2021年12月19日 日曜日
映画「マトリックスレザレクションズ」のポスター
ラナウォシャウスキー監督作品「マトリックス レザレクションズ」を観ました。
本作は1999年公開の「マトリックス」2003年公開の「マトリックス リローテッド」「マトリックス レボリューションズ」の続編にあたります。
人間はコンピューターに電力を供給するためのエネルギー源として培養液で満たされたポッドと呼ばれるカプセルの中で体中をプラグにつながれて、コンピューターが直接脳に作り出す仮想現実(マトリックス)を本物の人生と信じて一生を終える存在になったとしたら。1999年公開のマトリックスを観た時は、そのSFとしての発想の面白さとリアルさ、仮想現実の世界でプログラムと人の意識が何故かカンフーで戦うアクション映画としての爽快感に魅了されました。
今作は新キャラクターのバッグスが、前作において人類を救った伝説の救世主、ネオを見つけ出しマトリックスから覚醒させます。ネオはいまだマトリックスにとらわれている恋人トリニティーを救出するため、さらには人類を救うため、再びコンピューターと戦うべく立ち上がるという展開です。過去の3作品を観ていない人にも楽しめる作りにはなっていたと思いますが、これまでの物語を知らないと面白さが伝わらないと思える部分も多々ありました。
本作で感じたことのひとつは、深読みしすぎかも知れませんが、アメリカの民主党や財界などの小児性愛者、「影の国家」が世界を支配していると主張する極右陰謀論いわゆる「Qアノン」を信じている人たちが、「マトリックス」になぞらえて前回の大統領選で負けたトランプ氏を救世主として、連邦議事堂襲撃事件を起こしたことは記憶に新しいところです。本作ではそれを否定するかのような表現も目立ち、支配からの解放こそがマトリックスのテーマですが、盲目的に信じることの愚かさも描かれていたと思います。
歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリさんは、シンギュラリティに達する時、人類は脳とコンピューターを一体化させるだろうと予測していますが、私は人類がマトリックスに支配されるに至るまでの物語を観たいです。

2021年12月30日 木曜日
小説「安楽死特区」の表紙
2018年11月にスイスで安楽死を遂げた神経難病を患う日本人女性とその家族を1年以上にわたり取材し、安楽死の一部始終を映像に収めた、2019年6月2日放送のNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」は、衝撃的なドキュメンタリーでした。
女性は多系統萎縮症を患っており、自分らしさを保ったまま亡くなりたいと願っていました。しかし、日本では延命処置を控えるなど消極的安楽死(尊厳死)は法制化はされていないものの認められていますが、致死薬の投与などの積極的安楽死は認められていません。安楽死を選んだ女性と、彼女の選択と向き合い続けた家族の姿は「安楽死」というものを通して、人の生きる価値とは何なのか問いかけているように思えました。
番組内で、スイスでは国民的な議論の末に「安楽死」を法的に認めた経緯を紹介していましたが、日本では議論することすらタブーになっているように感じます。

今回紹介する長尾和宏さんの小説「安楽死特区」は、現役の医師でもある長尾さんが、日常臨床の場で「死」と向き合っている医師として、「もし、日本で安楽死が認められたら、その先にはどんな未来が待ち受けているのか」という世界を描いています。

舞台は、2024年から2025年。東京オリンピック後、さらに財政が厳しい状況に陥っている日本。政府は社会保障費の増加をなんとしても抑制したいという思わくから「安楽死法案」を可決し、東京都に「安楽死特区」を作ることを決定します。
補助人工心臓手術のエキスパートとして名を上げていた尾形紘は、緊急搬送された大手自動車メーカー会長の手術をほかの医師に任せ、やはり緊急を要する心臓移植待機中の少女の手術に向かったことで、大学病院内外から批判を受けます。失意の中、大学を辞める決意をした彼に下された処遇は、「安楽死特区の主治医となり自殺ほう助をせよ」というものでした。一方で、かつて人気女流作家であった澤井真子はアルツハイマー型認知症と診断をされ、小説が思うように書けなくなる前に死ぬことを切望します。さらに、前東京都知事である池端貴子は日本初の孤独担当大臣に国から任命されると、自身が末期がんであることをメディアに告白し、「私が、安楽死特区の第一号として死ぬ」と記者会見を行います。そして「安楽死特区」にかかわる、さまざまな女と男、それぞれの「死にたい」物語が交差した時、群像劇は思わぬ結末へと展開していくというストーリーです。

老いや病を抱え、死を願う男と女が、国家が仕組んだ罠に堕ちてゆくリアリテイのある安楽死のシミュレーションであり、エンターティメント作品というのが第一印象でした。しかし、「安楽死」と混同されがちな言葉に「尊厳死」がありますが両者は全く別で、本書はその違いと、尊厳死にかかわるリビングウィル(終末期医療における事前指示書)も物語の中で解説しており「安楽死」を考える上で最低限必要な知識が得られるようになっています。
「能力主義」が台頭する現代にあっては「安楽死」の議論は慎重にしないと、合法的なアウシュビッツを作ってしまうのではないか。本書を読んで少し怖くなりました。

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