2022年4月、5月、6月分の日記です。
2022年4月10日 日曜日
映画「とんび」のポスター
瀬々敬久監督作品「とんび」を観ました。原作は重松清さんの同名小説です。
瀬々さんの作品は2018年5月公開の「友罪」2019年10月公開の「楽園」2021年10月公開の「護られなかった者たちへ」を観ていますが、これらの作品同様に「辛いことだらけの世の中だけど、それでも人の暖かさを信じたい」という気持ちにさせてくれる作品でした。

舞台は瀬戸内海に面した海岸線が美しい広島県備後市で、昭和37年から始まる父と子と市井の人々の愛情物語です。
主人公は運送会社に勤めるヤスこと市川安男。少し粗暴だけれど心根のやさしいヤスは愛妻の妊娠に嬉しさを隠しきれず、ヤスの姉代わりで小料理屋の女将、たえ子や、幼なじみでお寺の跡取り息子、照雲と妻の幸恵に茶化されながらも幸せな日々を過ごしていました。
幼い頃に両親と離別したヤスと、戦争孤児であった妻の美佐子にとって、暖かい家庭を築くことはこの上ない幸せでした。そして待望の息子、アキラが誕生します。しかし、それからわずか3年後、美佐子が突然の事故で亡くなってしまいます。
ヤスとアキラは2人きりの暮らしを始めることになりますが、たえ子や照雲、幸恵らがアキラを我が子のように可愛がってくれます。一方、いまだに美佐子を失った事故を悔やみきれないヤスは、照雲の父で住職の海雲に励まされることでようやく前を向き、周囲の手を借りながら、精一杯の愛情でアキラを育てていきます。
月日は流れ、高校3年生になったアキラは東京の大学に合格し、2人は離れて暮らすことになります。そして昭和63年、大人になったアキラは、ある目的で上京したヤスと久々に再会し、会ってほしい女性がいると打ち明けますが・・・。

昭和、平成、令和と数十年間に渡る1組の父子の年代記を、2人が重ねる歳月の重みを感じさせつつ、時間の冗長さは感じさせないところは、さすが瀬々監督で、物語の中で織りなされる、昭和40年代以降の瀬戸内で暮らす人々の大らかさや、相手を思いやり助け合う暖かさ。それは単に「昔は良かったな」とノスタルジーで満足するものではなく、未来へつなげていくべき大切なもの。そんな思いがヤスの子育てを周囲の仲間が支えるという「家族」の物語に託されていたと思います。
いくつも胸が熱くなるシーンがあり、ハンカチが必須の作品ですが、美佐子の死は自分のせいだとヤスがアキラに嘘をつくシーンは、ヤスの愛情の深さがジーンと伝わってきて泣けました。

2022年4月15日 金曜日
「ヤマザキ春のパンまつり」の白い皿
「ヤマザキ春のパンまつり」の「白い皿」をゲットしました。
商品に付いたシールを28点集めると、1皿交換してもらえるキャンペーンは、今年で42回目を数えるらしいのですが、今年の皿は少し深めのボウル型です。フランス製で素材がガラスになっており、割れにくいことなどネットで話題になっています。
毎年、パンに貼られたシールを見つけると、食器棚のすみに貼り付けることを条件反射のようにやってしまいますが、なんだか春の風物詩のようです。ただ、たまには皿ではなくマグカップにしてほしいと思ったりします。
ヤマザキのパンはどれも美味しいですが、「ランチパックのたまご」をオーブントースターでこんがり焼いて食べるのが好きです。

2022年5月1日 日曜日
「すばらしい人体」の表紙
腫瘍内科医の押川勝太郎さん、眼科医の平松類さん、緩和ケア医の大津秀一さんなど、ネット上で臨床医ならではの医療情報を実名発信している医師は多く、消化器外科医の山本健人さんもそのひとりです。
山本さんの著書「すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険」は、私たちの体がいかにすばらしい機能を持っているかを人体各部にわたって解説し、それが病気とどう関わるのか、さらに現代医療を支える医療機器とその歴史まで、学校の理科では学ぶことがない人体の面白さが詰まった一冊です。
過去にNHKスペシャルで放送された、病気を進化医学の視点からみた「病の起源」や、人体の機能は各臓器の情報ネットワークで調整されているという最新の研究を紹介した「人体、神秘の巨大ネットワーク」では、解剖や生理といった基礎から解説していくというスタイルで医学の不思議や面白さを伝えていましたが、本書は誰もが日常で感じているであろう人体の不思議から興味をもってもらおうというアプローチで、より親しみやすく解説されています。
例えば肛門。肛門は直腸から下りてきたものが固体か液体か気体かを瞬時に見分け、気体のときのみ排出します。これがオナラです。固体と気体が同時に下りてきたときは、固体を直腸内にとどめて気体のみを出すという芸当ができます。ところが下痢の時など、この調整がうまくいかずに大事故を起こした経験のある方もいるでしょう(笑)
このように普段は当たり前にできていて意識すらしないような、自然で巧妙な仕掛けで人体は動いている、ゆえにそれが損なわれる「病気」という状態になった時どういうことが起こりうるのかというところまで楽しく学べます。
印象に残ったのは、病気と健康の境目を定義するのは難しいという著者の指摘です。どんなに健康な人でも人体に有害な菌は棲んでいるし、棲んでいるからといって病気であるとはいえません。新型コロナウイルスの診断に用いられるPCR検査の事情などはもっと複雑で、PCR検査で分かるのは「ウイルスの断片が存在するか否か」であって、「病気か否か」ではありません。同様に、がんは健康な人の体でも実は絶えず生まれており、「がん細胞が体にある状態」だけでは病気ではありません。亡くなった人の体を解剖すると偶然に前立腺がんが見つかることもあるといいますが、その人が「生前は病気だった」と言えるのか。
知的好奇心を満たしつつ自身の体を知るのに役に立つのはもちろん、医療の世界で働いてみたいと思っている子供たちにおすすめの一冊です。

2022年5月8日 日曜日
映画「死刑にいたる病」の表紙
白石和彌監督作品「死刑にいたる病」を観ました。原作は櫛木理宇(くしき りう)さんの同名小説です。
白石監督といえば、思わず目をそむけてしまいたくなる残忍で、おぞましいことが平然とできてしまう人をノンフィクションとして描いた、2013年公開「凶悪」の身震いする怖さを思い出しますが、本作はこの要素に加えて、一人の妄想がもう一人に感染し、複数人が同じ妄想を共有し、精神が腐っていくような気持ち悪い恐怖を描いたサイコミステリーです。

シリアルキラーを描く映画は多いですが、この作品の主人公である榛村(はいむら)も身の毛がよだつサイコパスです。人柄のよいパン屋として地域社会に溶け込む一方で、高校生の男女を自宅の小屋に監禁、残忍な拷問の末に殺害し続けます。24件の殺人容疑で逮捕、9件で起訴され死刑判決を受けますが、何人殺したか本人も覚えていない快楽殺人です。狙うのは進学校に通う優秀な高校生ばかり。時間をかけて関係を築いて拉致、同じやり方でいたぶり、殺す。犯行は計画的で秩序だち、法廷では「一連の行為は自分にとって必要なことだった」と冷静に答えます。
そんな連続猟奇殺人犯からの手紙が、父親の理想とは程遠いFラン大学に通い、うっくつした日々を送る雅也に届きます。中学生の時にパン屋の常連だった雅也は東京拘置所へ面会に行きます。榛村は立件された9件のうち、26才の女性が殺された9件目だけは無実だと主張、雅也に真犯人を突き止めてくれるよう頼みます。
榛村の言葉になぜか真実味を感じた雅也は事件の関係者への聞き取りを始めます。その過程で榛村の過去も次第に明らかになり、子供のころに虐待を受け、少年刑務所を経て、人権活動家の養子になったことがわかります。榛村には親に抑圧され自尊心の低い子供を見分けて、その子供を意のままに操る能力がありました。また、雅也の母親と榛村は雅也が生まれる以前に関係があったことがわかり、物語は想像を超える残酷な事件の闇へと落ちていきます・・・。

ミステリーですが、榛村の犯行の猟奇性は最初に明示されます。謎解きの焦点は榛村がどうやって人を操ったかで、その謎を解くべき雅也も父親の抑圧を受けており、そのために榛村に操られているのではないかとの疑念がわいてきます。なので、物語のキモとなるのは度重なる面会室での榛村と雅也の対面シーンで、2人の反発と共感を示すように2人を隔てるアクリル板に2人の顔が二重写しになったり、時にアクリル板が消失して指が触れたり、寄り添ったり。操ろうとする側と操られまいとする側の緊迫感がスリリングに伝わってきました。

2022年5月18日 水曜日
「生き物の死にざま」の表紙
稲垣栄洋さんの著書「生き物の死にざま はかない命の物語」を読みました。
稲垣さんは農林水産省、農林技術研究所の研究員を経て、現在は静岡大学大学院農学研究科教授をされています。
本書は、生き物がどんな生涯を過ごし、どのように命を落とすのか。ペンギン、クマ、クジラ、ゴリラなど誰もが知っている生き物の生態と「死」という重いテーマを、小説のような物語形式でわかりやすく描いています。
第1章では親子愛(親の自己犠牲)」の物語を、第2章では最後は肉になる経済動物のウシなど、人の営みによって生き死にが決まる生き物の物語を、第3章ではモズの「はやにえ」に襲われたカエルなど、厳しい自然界を前に無情にも命を落としてしまう生き物たちの物語を、第4章では生きる意味を問う私たち「ヒト」にスポットを当て「命とは何か?、生きるとは何か?」という本書全編を通したテーマを考えるという構成になっています。
私たちが生きられるのは「今」のこの一瞬しかありません。しかし、私たちは過去から学んだり、未来を想像することができます。こうした想像力は人間だけが獲得した能力です。しかし、それによって不安にさいなまれたり、過去を悔いて苦しんだりするのも人間だけです。一部の哺乳類を除いた動物や魚、昆虫など他の生き物はそうではありません。
本書をひも解くと、種に組み込まれた本能に従い、「今この一瞬」だけを生きる生物たちの姿が見えてきます。時にはかなく、人間から見ると残酷にも思える生き物たちの生涯と死にざまです。しかし、そこには未来も過去もない「今」を生きる命のきらめきを感じます。
食肉となることを運命づけられた牛や、肉食動物でありながらごくわずかな個体しか大人になるまで生きられないチーターなど、自分ではどうにもならない事情で過酷な生涯を送ることがある生き物たちの姿から、過度に未来を恐れたり、過去を悔やんだりせず、シンプルに今を生きることの大切さが伝わってきました。

本書を読んで「月のうさぎ」の由来になった仏典の説話を思い出しました。
倒れている老人を救うために、クマ、キツネ、ウサギはそれぞれ食べ物を探しに行きます。クマとキツネはそれぞれ食べ物を持ち帰りましたが、非力なウサギは何も持ち帰れませんでした。そこでウサギは老人に火をおこして下さいと頼みます。そして「私を食べて下さい」と火の中に飛び込みました。
老人は三匹の信心を確かめに来た神の化身で、ウサギの献身に感動した神はウサギを讃え月にその姿を刻みます。そして、身を投げ出したウサギは釈迦の前世の姿でした。
この説話の意図する「慈悲の心」を本書の中になぜか感じました。

2022年5月22日 日曜日
映画「シン ウルトラマン」のポスター
企画、脚本を庵野秀明さんが担当し、樋口真嗣さんが監督を務めた「シン ウルトラマン」を観ました。

次々と巨大不明生物(禍威獣 カイジュウ)が現れ、その存在が日常となった日本が舞台。自衛隊が持つ通常兵器での殺処分には限界があることがわかり、日本政府は禍威獣対策のスペシャリストを集結し禍威獣特設対策室専従班(通称 禍特対)を組織します。
禍威獣による危機がせまる中、突然、大気圏外から飛来した赤い光の玉が地上に激突したと同時に銀色の巨人が出現し、荒れ狂う禍威獣と闘い倒し、そして去っていきました。果たして彼は人類の味方なのか敵なのか。禍威獣とは違う知性を感じさせる佇まいをどう捉えるべきか、禍特対のメンバーは考えます。この後に続く複数の禍威獣や宇宙人(劇中では外星人と呼称)との闘いの中で、徐々にウルトラマンとは何者なのかが明らかになっていくという展開です。

本作は1966年にテレビ放映された「ウルトラマン」をオマージュして、初めてテレビでウルトラマンを目撃した衝撃を現代に蘇らせ、未だ誰も見たことのないウルトラマンを表現するというコンセプトで制作したと庵野さんは語っていますが、私は、単純に正義の味方とは言えないウルトラマンの持つ複雑性をどう描いたのかに興味がありました。
1960年代。日本は高度成長期に突入し、当時はさまざまな価値が激しく動揺していました。正しいとされてきたことが疑問視され、悪であるとみなされてきたことが、むしろ創造的であると肯定する人たちが出始めた頃に、ウルトラマンは誕生しました。
禍威獣を追って地球にやってきた外星人が追突事故で地球人を殺してしまったところから物語は始まります。その時の罪悪感から地球人を守ろうとする側に立つことになったウルトラマンは、地球人の暮らしを脅かす禍威獣や外星人と闘う存在になったものの複雑な内情を抱えます。
高度経済成長期に入った日本は各地で環境破壊進んでいました。人間と自然のバランスに、いたるところで裂け目ができて、その裂け目から噴き出してくる、怒りに満ちた自然のエネルギーを象徴する存在として、禍威獣は地中や海中、宇宙空間から出現してきました。そうなると禍威獣を地上に引き出してしまったのは人間であり、その禍威獣と闘うウルトラマンはねじれた関係性の中で人間の味方をすることにより、根源的な矛盾から目をそらすことになり、ウルトラマンの正義は矛盾にみちたものになります。しかし、ウルトラマンはこのことに気付いており、禍威獣との闘いでは徹底的に壊滅させたいのではないことも伝わってきます。禍威獣と闘うウルトラマンの行為は、果たしてストレートに正義といえるかということです。

今回のウクライナの戦争においては、悪を体現するロシアと、自由を守るウクライナ戦士という図式が西側と日本のメディアを覆いつくしいるし、対してロシアのメディアでは、悪であるネオナチを体現するNATOと、それと闘う正義の皇帝という図式が支配しています。
この世に完全な正義などないことを、ウルトラマンの抱える内面の葛藤を思い起こす事で考えてみるのもいいかも知れません。
ウルトラマンが弥勒菩薩(ミロクボサツ)をモデルに造形されたという話しは有名ですが、弥勒とはサンスクリット語でマイトレーヤといい、慈悲から生まれた者を意味しています。世界の指導者は慈悲のこころをぜひ思い出してほしいと切に願います。

2022年6月15日 水曜日
プリンターのインク
仕事で使っているモノクロプリンター(EPSON PX-K150)のインクがなくなり、ヨドバシカメラから交換用インクが届いたのが昨日。
それを今、交換しようとプリンターの電源を入れたら全ランプが点滅してコマンドを受け付けない状態に。フタを開けてみるとヘッドを動かす細いベルトが切れていました。2012年発売の製品なので耐用年数を考えれば仕方ありません。
でも、幸いなことに5年ほど前、3,000円という特価にひかれて衝動買いしたまま開封さえしていなかったCanonのプリンター(iP2700)があったことを思いだしました。
添付のドライバを使うより、メーカーのサイトで最新のものを入手したほうがアップデートの手間が省けると考えましたが、OSが自動認識して最新のドライバがインストールされるかも知れないと電源を入れてみたものの、2010年発売の製品(壊れたものより旧製品!)はやっぱりムリでした。
メーカーのサイトを確認したところWindows11にも対応したドライバはあるようだし、インクもサードパーティで安価に販売されているようなので、当分はコレでしのげそうです。
実は、今使っている自作PCもPOSTでハードウェアエラーになることが頻発するので、OfficeとPhotoshopがついて7万円というデスクトップ本体(DELL)があったので購入し、ゴールデンウィークに届いたのですが、まだ梱包さえといていません。
私の場合、グラフィックの解像度を下げて使いたいというニーズがあるため、今までは自作していたのですが、今回は分解可能でスロットに空きがると思われるメーカー品を購入して、VGA、XGAが出せなかったら、グラボだけを追加するという方法をとることにしました。
以前はコンピューターのセットアップ事態が楽しく感じられ、1台のマシンに複数のOSをインストールして、マルチブート環境で使うなんてことくらい平気でやったものですが、なんだか最近は面倒になってしまって、根気が続かなくなったと実感します。
それにしても、新品のインクどうしましょう。(笑)

2022年6月24日 金曜日
存在と時間
4月のNHK、Eテレ「100分de名著」はハイデガー著「存在と時間」でした。
カントの「純粋理性批判」ヘーゲルの「精神現象学」と並ぶ難解な哲学書として有名な本書は、日本人にはわりと馴染みやすいという書評を以前読んだ記憶があって、原著は無理でも専門家の解説で概要を知るくらいなら、なんとかなるかとテキストを購入しました。
現代は、自国第一主義の台頭や、コロナ禍の危機に直面し、既存の価値観が大きく揺らいで分断と対立の先鋭化が顕著です。また、市民の日常は、コロナ差別、学校や職場でのいじめなど、排他的な態度がまん延し、息苦しい世の中になっていると感じます。
番組では、これらの問題は「みんな」がそうしているから「自分」もと同調したり、迎合したり、便乗したりしてしまう。つまり、私たち、ひとりひとりが暴力に対して、あまりにも無自覚であることに根源的な原因があるとし、こうした暴力に抵抗するためにはどうしたらいいのかを考える手がかりとして「存在と時間」を読み解いていきました。
ハイデガーが登場する以前の哲学は「りんごがある」という時に「存在」とは「りんご」でした。それをハイデガーは「〜がある」のほうを追求し「存在」を再定義し、人間を存在の意味を問う存在者「現存在」として問い直しました。
現存在は純粋に個として「本来性」と社会的属性として「非本来性」に分けることができ、すべての人間は日常的に非本来性を生きています。そこに「不安」が生まれ、人間は「不安」から目を背けようとします。ここに他者の痛みに対して無自覚になってしまう原因があるとハイデガーは考えました。
では「不安」と向き合うにはどうしたらいいのか。答えは、非本来的な人間の在り方(社会的属性、誰でもない人、あるいは世間)から脱却すればよいということになります。そのためには自分の死を見据えることが必要で、つまり、死を自覚することで人間は「自分はこのように生きなければならない」という良心の声に気付くというのです。
このような死の逃れ難さを直視し、死の自覚を介して本来的な自己に立ち戻ろうとするあり方をハイデガーは「先駆的決意」と名付けました。
この非本来性からの脱却が番組でとりあげた「存在と時間」ではキモになる部分でしたが、私は「おまえも死ぬぞ」という釈迦の言葉を思い出しました。この言葉は「諸行無常」という仏教の概念を平場で示したものですが、「先駆的決意」とは、「諸行無常」を意識して生きることではないかと思いました。
現代の脳科学や進化医学の見解では、いじめは人類進化の過程で「生存するために」生来的に組み込まれたプログラムが発動することに原因があり、止めることはできないといいますが、哲学や倫理学を学ぶことの意味が少し分かった気がします。

2022年6月26日 日曜日
映画「峠 最後のサムライ」のポスター
コロナ禍により計3度、1年半の延期を経て公開された小泉堯史(こいずみたかし)監督作品「峠 最後のサムライ」を観ました。原作は司馬遼太郎さんの小説「峠」です。
主人公の河合継之助は、江戸時代末期に越後長岡藩の家老として、通行税の廃止など大胆な政策により、大きな赤字を抱えていた藩の財政再建を成し遂げました。そんな彼が40才を迎える頃、日本は明治維新を迎え戊辰戦争が勃発します。戦火は長岡藩と新政府軍の戦いである北越戦争へと燃え上がりました。
継之助は旧幕府軍や会津藩など東北諸藩軍にも新政府軍にもくみしない「非戦中立」を掲げますが、その願いが叶わないと知ると、藩をあげて新政府軍と戦う道を選びます。当時の最新兵器であるガトリングガンで新政府軍の猛攻をはね返し、敵に占領された長岡城を、深夜、闇に紛れて八町沖の沼地を渡り攻撃を仕掛ける作戦で奪還します。しかし、続々と兵士が補充される新政府軍の反撃を受けて敗走し、会津に逃れる途中で戦いで受けた傷が悪化して力尽きてしまいます。
継之助の主君である牧野家は徳川譜代の家柄ですから、新政府軍の会津侵攻は断じて認められません。おとなしく新政府軍に従い、会津攻めの先鋒を命じられるくらいなら、筋と義理を通して正義に殉じるのが武士の道であると、継之助は誇り高きサムライとして本作では描かれています。
武士道倫理の美しさが強調されるのは、原作に忠実であれば当然なのかも知れませんが、継之助の選択が正しかったのかどうか、今も賛否両論の意見があります。「民は国の本 吏は民の雇い」を政策の基本理念に、未来を見据えて改革を先導した継之助の功績は誰もが認めるところでしょう。しかし、その成功体験が自らの過信につながり、判断を誤ったとする見方もあるようです。
本作は、私の住む長岡市越路地区の長谷川邸でもロケを行っており、長谷川邸の土間は撮影のセットとして復元されていて、活気ある昔の生活感を感じる土間になっていました。

2022年6月30日 木曜日
砂の女
6月のNHK、Eテレ「100分de名著」は安部公房著「砂の女」でした。
主人公の男、教師の仁木順平(31才)は、8月のある日休みを取り、趣味の昆虫採集のために海岸の砂丘にやって来ます。帰りのバスに間に合わなくなり、砂丘の部落の老人の口利きで、ある家で一夜を過すことに。
その家は砂で出来たすり鉢状の、まるで深いアリ地獄の底にあるアバラ家で、30才前後の艶のある女がひとり住んでいました。夜更けて女は砂の浸蝕から家を守るため、砂かきを始めます。
翌朝男が家を出ようとすると、昨日、ここに降りてきた時に使った縄梯子が外されており、男はアリ地獄の底から上がれなくなってしまいます。
男は自分が砂かきの労働力として雇われたことを知り愕然とします。女によれば、この部落は愛郷精神により固く団結していると聞かされます。男はどうにかして逃げようとしますが・・・。

日常から異世界に放り出され、戻れなくなった男を描いた、寓話ともSFともとれる物語です。
私は高校生の時に読んでいますが、安部公房は純文学というよりもサブカル的な雰囲気があり、本作が各国語に翻訳され世界的評価も高いことを知ったのは随分後のことで、当時はエンターテイメント作品として読んでいたと思います。しかし、改めて読み返してみると「世にも奇妙な物語」的な面白さの中に、不条理な社会に対する危機感が感じられ、現実を理想や希望で飾ることに疑問を持ち、生きることの不条理や理不尽を受け入れることができますかという問いがあることに気付きました。
また「自由」について、男がアリ地獄に落ちる前に所属していた社会にあった自由と、アリ地獄に落ちて女との暮らしが持っている自由を比べた時に、本当の自由はどっちにあるのか、読者は究極の選択を迫られますが、いづれにしても疎外と孤独を恐れ、何かによりどころを求めなければ生きていけないのが人ではないか。そんな感想を持ちました。

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