2022年7月、8月、9月分の日記です。
2022年7月3日 日曜日
映画「PLAN75」のポスター
2021年
新潟県の総人口約218万人。
65才以上の人口約72万人。
高齢化率33%(全国29%)

2021年版の年齢階級別就業率
60〜64才 71.0%
65〜69才 49.6%
70〜74才 32.5%
いずれも10年前と比べ、10ポイント以上増加しています。ちなみに、フランスの70〜74才就業率は約3%。

2019年度公的年金平均受給額
国民年金 月額55,000円
厚生年金 月額145,000円
これは中央値でも同程度でした。ちなみにフランスの平均受給額は192,000円でした。

欧米に比べて日本の高齢者の就業率が高いのは、仕事に生きがいを求めているという理由もあるが、公的年金受給額の低さが生活の困窮につながり、結果として高齢就労者を増やすことになっていると分析する経済学者もいます。
今の世の中、「能力主義」と「自己責任」に「寛容さ」が埋もれてしまい、全体に余裕がなくなってきていると感じている人は、年齢層に関係なく増えているのではないでしょうか。
こんな世の中で、1人の高齢者を1人の若者が支える構造になる未来が迫っています・・・。

早川千絵監督作品「PLAN75」は、75才以上が自ら生死を選択できる制度が施行された近未来の日本を舞台に、年齢による命の線引きというセンセーショナルな題材を細やかな演出で描いています。
舞台は少子高齢化が進んだ近未来の日本。
満75才から生死の選択権を与える制度「プラン75」が国会で可決、施行されます。当初は様々な議論があったものの、超高齢化社会の抜本的解決策として、世の中に受け入れらます。
主人公は78才の角谷ミチ。最初の結婚は姑とソリが合わず、生まれた子供も病気で亡くなり離婚。再婚した夫の間に子供はなく、夫は2年前に他界。今は民間アパートでひとり、つつましく暮らしています。ホテル清掃の仕事仲間で同年代の同僚たちと他愛のないおしゃべりをしたり、たまにカラオケに出かけたりするのを楽しみにしています。「プラン75」のことはまだそんなに真剣には考えていません。これまで通りの生活が続くものと思っていました。ところが、高齢を理由に仕事を解雇されてしまいます。住む場所も失いそうになった彼女の中に「プラン75」は少しずつ浸透し始めます。
一方、市役所の「プラン75」申請窓口で働くヒロムや、「プラン75」に申し込んだ高齢者に「その日」が来るまでサポートするコールセンタースタッフの瑶子らは、申し込んだ高齢者とかかわるうちに「プラン75」という制度の在り方に戸惑いを持つようになっていきます・・・。

2014年に放送されたNHKスペシャル「老人漂流社会 老後破産の現実」は本当に身につまされる思いがしましたが、本作は、まるでその続編のように思えました。
少子高齢化をはじめ多くの経済問題を抱える日本で、高齢化対策として75歳以上に自死を選べる制度が導入される世界は、もはや限りなく現実に近いフィクションなのかも知れません。国家が死のほう助を容認し、システマティックに高齢者を死に追い込む不気味さ。
待合室の大型ディスプレイに映し出される「人は選んで生まれてくることはできないけれど、死は選べて良いよね」と高齢女性がニコニコしながら答える政府広報のCMは、ネガティブなことをポジティブに言い換えて真実を隠ぺいしようとするところがとてもリアルで、現実世界と地続きであるかのような感覚になりました。
ヒロムと瑶子という若い2人も、最初は無自覚に、ただ与えられた仕事を淡々と機械のようにこなします。自分たちが相手をしている高齢者は、その選択により死ぬわけですが、そこまで想像できていません。それが、高齢者との束の間の交流を持ったことによって人間的な感情に目覚め、自分たちが何に加担しているか、何に組み込まれているかということに気づいていきます。その姿が小さい希望として描かれていました。また、「プラン75」を実施する施設で働くフィリピン人のマリアも、困っている時に「助けて」と言えない日本社会の在り方を考えさせる存在として印象に残りました。

本作は日本、フランス、フィリピンによる合作です。これには、制作資金が日本だけでは足りなかったとう事情があるようですが、なんだかなぁと感じるのは私だけでしょうか。
本作は第75回カンヌ国際映画祭、カメラドール特別表彰受賞作品です。

2022年7月13日 水曜日
超音波治療装置
超音波治療装置を刷新しました。
今回選定した機種は固定式プローフで低出力パルス照射ができることが特徴です。
これは骨折の骨癒合期間の短縮を目的に開発され、保険適用も認められています。近年では骨癒合促進だけでなく、軟部組織の修復、骨膜の炎症抑制や軟骨組織の再生の効果も報告されています。
また、最近では超音波治療による血管修復因子の賦活の報告もあります。
この報告はヒトの血管内皮細胞に対して、1MHzの超音波を浴びせる事で血管内皮細胞から血管修復因子でありヘムオキシゲナーゼ1の発現に関連した遺伝子の増強、また同タンパク自体の発現の増強を確認したというものです。
この報告によると超音波を浴びせた細胞は超音波を浴びせていない細胞に比較して、 20倍ものヘムオキシゲナーゼ1関連遺伝子の増強が確認され、また同タンパク自体の増強は超音波照射の8時間後から12時間後まで確認されたとの事でした。

2022年7月17日 日曜日
血液バッグ
41回目の献血に行って来ました。 長岡市内のコロナウィルス感染者が100人近くになったこともあってか、とても空いていました。
いつもだと検査の後、採血までに待ち時間があるのですが、この日は検査をした看護師さんが、そのまま採血も行い全行程20分くらいで終わりました。
そういうわけでスムースに進んだので、採血をした400ml血液バッグを写真に撮らせてもらいました。個別情報がわかるシールが貼ってある側は後からモザイクかけるのが面倒なので、何もない側に持ち替えてほしいとか面倒を言いましたが、にこやかに対応していただきました。
笑顔は女性を五割増しに美人にしますね(笑)

2022年7月30日 土曜日
「フェイク ウソ、ニセに惑わされる人たちへ」の表紙
世界的ベストセラーになった、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリさんの著書「サピエンス全史、文明の構造と人類の幸福」をマンガで読みました(それでも2時間はかかりました)。
以前、ここで取り上げた分子古生物学者、更科功さんの著書「絶滅の人類史」には人類は私たちを含め20種類以上は生存していたとありましたが、サピエンス全史には、他の人類を駆逐して私たちホモサピエンスが現代まで生存し、さらに繁栄できた驚きの理由が解説されていました。
大きな脳がもたらす高い知能(道具と言語が使えたのはホモサピエンスだけではない)と優れた身体能力に恵まれた他の人類と比べ、か弱い存在であった私たちが生き残れたのは、物語、虚構を創り出し、かつ、それを信じることができた、つまり、ウソを信じる力を獲得できたからで、これをハラリさんは「認知革命」と定義しました。
「神の存在」「お金」「国家」これらはいづれもフィクションであるのだけれども、それらを信じることで私たちは文明を持つことができたわけで、人類の進化に「ウソ」は不可欠であったということです。
さて、今回読んだ脳科学者の中野信子さんの著書「フェイク ウソ、ニセに惑わされる人たちへ」は、「人はなぜウソをつくのか?」という疑問に脳内メカニズムからアプローチし、ウソ、フェイクに振り回されない知恵を考察しています。
脳内メカニズムからみると私たちの脳は、論理的に正しいものより、認知的に脳への負荷が軽い、つまり分かりやすいものを好むという性質を持つといいます。それは脳が身体全体で消費する酸素量のおよそ4分の1を消費することに由来しており、基本的にあまり思考しないように脳活動は効率化され、それが信じる力につながり、人類進化のカギになったとは実に不思議です。
この事実から「人はウソをついてしまうもの」、そして「騙されやすいもの」と認め、ウソがどんな性質をもち、何のためにつくウソなのか?悪意のあるものとやむを得ないこと、思いやりのあるものとの違いを見極めつつ、ウソとうまく付き合っていくことが、現代を生きる私たちに必要なことだと中野さんは指摘します。
確かに、私たちは誠実であることを求められる一方で、医療者と患者の関係性のように、医療者は自分が周囲から期待されている役割を演じ、その場にふさわしいウソをつき医療を行っています。しかし、そこにあるウソは多くの場合、思いやりです。対して、悪意のあるウソは、いわゆる詐欺、SNSのデマ、SF商法、一部の宗教団体による霊感商法など枚挙にいとまがありませんが、社会的な混乱をまねくようなSNSにあるウソなどは特にやっかいだと思います。自分が知らず知らずのうちに、誰かに誘導された選択肢を選び、思わぬトラブルに巻き込まれてしまうことがあり、自分が気を付けていても、自分が情報を預けた先で何が起こるか、まったく予測できないのは危険です。
こういったフェイク、ウソに騙されないためには、まず日頃から信頼できるメディアを複数チェックし、同じ事象について、情報を比較確認する、自分からエビデンスを集める努力をすることが大切なんだろうと思います。 とはいえ、真理探究が目的であり、誠実であるべき学術論文がウソとして発信されることもあれば、政府がウソをつくこともあり、信頼に足る情報なのかどうか、見極めるのは難しそうです。
本書で一番印象に残った1節を引用します。
論文があるから正しい?
その論文で使用されたデータはどういう処理をされているのか、一度でもあなたは吟味しましたか?統計的有意差の意味は分かりますか?不適切な改ざんや、ご都合主義的な図像の使用法をしていないという前提は絶対のものではなく、保証が一定の範囲内でしかありえないという独特な事情が存在する上で、研究者たちはその結果を暫定的に受け入れているのだとう、自然科学領域における明文化されないコンテクストを、本当に理解していますか?
あえて大変失礼な言い方をしますが、科学教育を受けているわけではない人が、こういった文脈があることを知らずに、トレーニングなしで論文を読んだ場合、誤読していまう、もしくは、きちんと読めないことのほうが多いでしょう。自然科学領域の論文というのは、それを聖書や仏典のように文字一つ一つからして「その通りです」と読むようなものでなく、一言一句、疑いながら読まなければならないものだからです。
論文を読むことにすら疑うプロセスを適用できないような、トレーニングも積んでいない知的体力の人が、日常的に、身の回りにあふれるフェイクを見抜くことができるか?
これは、はなはだ心もとないところでもあるでしょう。

2022年8月16日 火曜日
「信仰」の表紙
高額の献金を要求され、生活が破綻する信者が続出し社会問題化している新興宗教団体が、選挙協力をすることで与野党問わず政治家と深いつながりがあったことが、先般の安倍元総理銃撃事件の犯人の供述から明らかになり、これまで以上の政治家に対する強い不信感と共に、なぜ、人生が破綻するまで新興宗教に騙され続けてしまうのかといった、これまでにもメディアで幾度となく取り上げられてきた話題が連日報道されています。
前回、取り上げた中野信子さんの著書「フェイク」は「信じる」「騙される」を脳科学で論じ、騙されないためのメソッドを教えるという内容でしたが、村田沙耶香さんの短編小説集「信仰」は正常と異常の境界線は実はぼやけていて、そしてその境界線のなさこそが現実なのだという残酷な真実を読者に突きつけ、騙されることはすべてダメなこと、愚かなことと言い切れない「信じる」ことの深淵をえぐるような村田ワールドが展開されていました。

収録されている作品は、
1.信仰
2.生存
3.土脉潤起(どみゃくうるおいおこる)
4.彼らの惑星へ帰っていくこと
5.カルチャーショック
6.気持ちよさという罪
7.書かなかった小説
8.最後の展覧会

の8編で、「彼らの惑星へ帰っていくこと」と「気持ちよさという罪」は小説とエッセイのハイブリッド?という感じで、村田さんの感性の原点を感じさせる作品です。
さて、タイトルにもなっている「信仰」は、冷静無比なリアリストの「私」が、対極のカルト宗教に次第に染まっていく話です。もともと彼女は「現実」が正義で、たやすく「幻想」に騙される不幸な人を救う使命感さえ持っていました。そんな彼女が、起業のための高額なセミナーを受けようとする妹を全力で阻止した際に、妹が言い放った「お姉ちゃんの現実って、ほとんどカルトだよね」という言葉にショックを受けます。
確かに、私たちが信じている「現実」も一種のカルト信仰なのかもしれないし、「幻想」ほどには人を幸福にしていないかも知れません。こうして彼女は「天動説」を唱え古代人の感性に戻ろうと主張する怪しげなセミナーで、率先して洗脳されたがり、「現実」を放棄しようとしますが・・・。
私たちは多くのことを信じながら生きていますが、そのほとんどについて無自覚です。お金の価値、国家、民主主義など、これらはみんなフェイクであって、何を根拠に信じていますかと問われても、多くの人は言葉を失うでしょう。
どんなに荒唐無稽なことでも、多くの人が信じれば、それは真実になります。でも、信じることこそ真実になってしまうと、陰謀論の流布やテロ、ひいては戦争までつながってしまうのは歴史が証明しています。「信じるとはなにか」本作は問うていると思いました。

このほか、65才以上の生存率の数値で人がランク付けられた格差社会を描いた「生存」。均質化された街に住む親子が刺激的な風景の街へと旅行する「カルチャーショック」など現代社会の歪みを描いた作品群は、常識や理念が揺らいで目まいがしそうでした。

エッセイ?の「気持ちよさという罪」は、「個性」や「多様性」といった最近よく使われるスローガンの薄気味悪さについて書かれており、そこには村田さんが子供の頃から抱えてきた異端としての孤独な時間や、独自の発想のルーツが垣間見えました。
新刊発表の度に読者に衝撃を与えてきた村田さんですが、今作も期待を裏切らないどころか、これまで以上に読者の脳みそをかき回す力がアップしていました。

2022年9月1日 木曜日
「その病気、市販薬で治せます」の表紙
「その病気、市販薬で治せます」を読みました。著者は市販薬(OTC医薬品)の販売を専門としている薬剤師、久里建人さんです。本書は市民が街のドラッグストアで薬を賢く買うための指南書といった内容です。

ドラッグストアなどで1世帯当たり年間1万2千円以上の対象になる市販薬を購入し、予防接種や健康診断を受け、医療費控除を申請しないという条件を満たせば、所得税の控除対象になるという「セルフメディケーション税制」が導入されたのが2017年。
2022年1月からはスイッチOTC医薬品(処方薬のうち副作用が少なく安全性の高い成分を市販薬に転用したもの)だけでなく、3つの症状群(かぜ、腰痛肩こり、アレルギー)に対する市販薬も対象になりました。
この税制の背景には、薬価(処方薬の公定価格)が患者1人当たり1億6707万7222円になる脊髄性筋萎縮症治療薬「ゾルゲンスマ」に代表されるような非常に高額な処方薬が増えてきたことに関連して、医療費の抑制という観点からセルフメディケーションという概念に基づいて、市民には市販薬をもっと活用してもらい医療費を抑制したいとう政府の思わくがあるのかも知れません。

セルフメディケーションとは、自分自身の健康に責任を持ち、軽度な身体の不調は自分で手当てすることです。具体的には体重、血圧等の測定、適度な運動を継続するなど、日頃から健康を意識することを基本に、軽度の不調には市販薬で対応し、症状の改善が思わしくない場合には医療機関等を受診したり、適宜判断して下さいということです。
このセルフメディケーション政策により処方薬は次々に市販化され、処方薬と市販薬の間の壁は融解しつつある現状があります。この中で市民が自身の症状にあわせ適宜判断して市販薬を使うには、市販薬に対するリテラシーが足りないかも知れません。2022年7月22日の新聞に、コロナ「自宅安静と市販薬で治る」静岡県、冷静な対応呼び掛け。という記事がありましたが、ではどんな市販薬を選べばよいのか、なかなか市民にはわからないと思います。
そんな市民に向けて本書は、

第1章 「かぜで病院へ行くべきか」問題
第2章 ドラッグストアと市販薬で起きている激変
第3章 「バファリン」と「イブ」は何が違うのか?
第4章 人に聞けない「あの薬」
第5章 毎日を元気に乗り切るために
第6章 「最強の薬箱」作りの罠と注意点
第7章 インフォデミックとコロナ禍
第8章 市販薬2.0「セルフメディケーション」の未来

という構成で、薬に対する基本的な知識がない市民が興味を持てるように、市販薬のトリビアなことも交えつつ、ドラッグストアと市販薬、薬剤師や医薬品登録販売者の使いかたを解説しています。
特に第3章、第4章は一番興味をもてるところだと思いますが、ここで紹介されている薬に関するトリビアをいくつか挙げると、

・ロキソニンはほぼ日本人しか使わない。
・世界で一番売れている外用鎮痛薬はサロンパス。
・医療用点眼薬にビタミンAは使われていない。
・日本の「かぜ薬」は世界でも突出して含まれる成分の種類が多い。
・「ナイシトール」は実は漢方薬で、体重を減らせるというエビデンスはない。
・睡眠導入剤(ドリエルなど)は抗ヒスタミン剤の副作用を利用している。

この中で「かぜ薬」について補足すると、かぜであるからといって、必ずしもかぜ薬(総合感冒薬)の選択が最適とは限らず、不要な成分が配合されているかぜ薬を飲むことは、無意味に副作用のリスクを高めることになるため、症状がはっきりしている場合には、症状にあった薬(解熱鎮痛剤、抗炎症剤など)を使うほうがよいと思います。

慶應義塾大学薬学部が2015年に発表した論文によると、市販のかぜ薬を購入した消費者がもっとも重視した情報源は箱のキャッチコピー等47%、ついで価格、本来重視すべき含有成分はわずか7%でした。また、同調査で調査対象を「薬剤師らに相談する」群と、「テレビCMを参考にする」群とに分けて、それぞれのかぜ薬の知識、理解度を調べたところ、後者は誤った認識を持つ人が明らかに多かったそうです。
著者は本来のセルフメディケーションについて、自力でなんとかするのとは「真逆のこと」と指摘し、「相談してくれれば色々な情報を提供できるのに・・・」と、もどかしく思っている店頭の薬剤師や医薬品登録販売者の心情を代弁しています。しかし現実には、レジで薬を購入する人に詳しい症状や用途を尋ね、安全を図りつつ適応するかを確認しようとしても、「余計なお世話だ」と煙たがられることもあるそうです。 自分が選んだものを買いたいと求める消費者のニーズに応えるのが商売だとすれば、なかなか難しい問題だと思います。

このコーナーでは過去数回にわたり吉峰文俊先生(呼吸器内科医、新潟県立十日町病院院長)が提唱されている「健康ファイル」を紹介してきましたが、これこそがセルフメディケーションであると思います。
薬には副作用がつきものですが、日本には「入院が必要となるほどの重い副作用が生じた場合に、その医療費などを給付してくれる」という医薬品副作用被害救済制度がありますが、添付文書、レシートは残しておかなければなりません。なので、市販薬を購入したら添付文書を読んだ後、購入した日付を書いてファイルすればいいのです。
本書と、健康ファイル、目指すところは同じです。 CaseFileのコーナーを参照して下さい。

2022年9月3日 土曜日
サイエンスカフェのポスター
新潟青陵大学主催のサイエンスカフェに参加しました。
「サイエンスカフェ」とは、専門家や一般の人々が、科学や専門分野について気軽に語り合う知的サロンのことで、今回は「心理学」でした。
講師は新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科教授の碓井真史先生で、最初に碓井先生から社会に心理学が活かされている事例を挙げながら心理学の概要の解説があり、その後スモールグループに分かれて大学院生をファシリテーターにグループワークをやりました。約1時間程度のセッションの後、グループの代表が話し合われた内容を発表。最後に市民参加者が感想を述べて終わりました。

私のグループは私と2人の大学院生でした。テーマは「軽度視覚障害者が抱える心理的問題」で、セッションの内容を簡単にまとめると、
視覚障害者とは白杖や盲導犬、点字を使う人というイメージがある中で、見えている視覚障害者(弱視、ロービジョンとも呼ばれる)はあまり知られていない存在である。
世の中では、障害の重い人は大きなリンゴ、軽い人は小さなリンゴという捉え方をするが、実際は障害の軽い人はバナナである。つまり、障害の重い軽いは量の違いではなく、質の違いである。その観点から、心理的な葛藤についても軽度視覚障害者は特徴的なものがあると考えられる。
学校や会社、地域社会では、見えにくいことが相手に理解されないで関係性が悪くなることは問題であるが、他人から見られることが恥ずかしい、カッコ悪い、みじめな気持ちなど、自分自身が視覚障害に対して否定的な感情を持っている、あるいは周囲から晴眼者であることを期待されるために、障害を隠そうとする心理が働く。これは重度視覚障害者にはみられない特徴である。しかし、かなり無理をして何とかなるレベルでは隠しきることは難しく、なにより自分から隠すことはできないため、より深い葛藤に悩まされる・・・。

この問題に対して心理学はどういう答えを持っているのか。二人の大学院生と考えましたが、結論は出ませんでした。途中から興味を持たれたのか碓井先生も加わり「共感する」ということについて話しは進み、私は共感について”同じ体験をした者同士だけが持ち得る”という考えを述べたことに対して、碓井先生は”共感する気持ちがある”としたらどうか、救いにならないかと、にこやかに述べられました。

医学や工学の発達が視覚障害者の支援に寄与している功績は目を見張るものがありますが、心理的支援という面では、まだ手つかずの感が否めません。
今回、院生の方たちと話して、その真摯な姿勢に胸を打たれました。ご自身が緑内障の告知を受け、絶望的な気持ちになったことまでカミングアウトして下さったことに、こちらを理解しようという気持ちが伝わってきました。
お二人ともマスターを取得された後は臨床心理士の道に進むとお聞きしましが、若い力に期待したいと思います。

2022年9月20日 火曜日
「バカの災厄」の表紙
生物学者の池田清彦さんの著書「バカの災厄 頭が悪いとはどういうことか」を読みました。
私はアタマが悪いこと(ひろゆきさん風に言えば無能)を自認しているので、こういうタイトルを見かけるとつい反応してしまいます(笑)

本書は、ネット上での炎上やデマの流布、あおり運転やモンスタークレーマーなど、近年増え続けている「バカの災厄」はなぜ起きるのか。自分の意見こそが正しいと信じて疑わない「バカ」の考え方と賢い人の違いを解説しながら、バカに対処する方法を紹介しています。
池田さんが定義するバカとは、偏差値やIQが低い人のことではなく、「概念がはらむ同一性は一意に決まる」と思い込んでいる人たちのことで、言葉を変えれば「この世界には最終的な真理があって、その認識を共有しない者は許せない」と思っている人のことです。例えば、国家とはということを考える時に、全員が同じ認識を持つことなどあり得ないわけですが、それがわからないとウクライナのように、罪のない命が奪われることになるわけです。
これに対して賢い人とは「自分の考えと他人の考えは違っていて当たり前」ということを知っていて、自分の概念と他人の概念は同じ言葉であっても意味が違うし、そもそも概念に正しさを求めるのは間違っているということを理解している人のことです。
では、バカにならないためにはどうしたらいいか。世の中には、自分と違う考えの人間がいるのが当たり前なので、それを踏まえた上で自分の考えを組み替えていく。ある論点について賛否両論をともに参照して考えることをする。これまで正しいと信じていたことに対しても、「そうか、そういう見方もあるのか」と別の視点を加えることで、「だったら、こういう可能性もあるよね」と常に自分の思考をアップデートしていく。こういった思考の柔軟さが大切であると池田さんは言います。
確かに賢い人は、「どちらの概念が正しいか」ということにとらわれず、「どういう概念を共有したら、みんながお互いに幸せに生きることができるのか」ということに重きをおいてコミニュケーションをしていると思います。

面白かったのは、日本人の「風に流される」「強い者に従う」といった元来の国民性に加え、「みんな一緒」とか「みんな平等」というのを幼い頃から叩き込まれ、自分の頭では何も考えさせない戦後日本の教育がバカを量産しているという池田さんの分析です。近年、ブラック校則という、法的根拠も科学的根拠もなければ、合理性すらない規則が、どんなに時代遅れになろうと、ただ惰性や思考停止で継続している「おバカルール」をいまだに守っている学校があることが話題になりましたが、確かに「規則バカ」ともいうべき画一的な教育を受け続けると、自身で考えることがない、ただ従順な羊のような人間になってしまうのは分かる気がします。

2022年9月25日 日曜日
映画「川っぺりムコリッタ」のポスター
荻上直子監督作品「川っぺりムコリッタ」を観ました。本作は荻上監督が2019年に上梓した同名の長編小説を映画化したものです。
この日、車椅子に乗った高齢の小柄なご婦人が、小学生くらいの女の子と、そのお母さんに付き添われて来場されました。私の座るD列の通路横の席に着かれると、女の子とお母さんは「じゃ、終わったら迎えにくるからね」と言い残し、出て行かれました。

舞台は真夏から初秋の北陸の町。主人公の青年、山田は、ある事情から小さな塩辛工場に就職し、社長から紹介してもらった、川沿いに建つ築50年、平屋の民間アパート「ハイツムコリッタ」で暮らし始めるところから物語は始まります。
他人と関わることを避け、ひっそりと生きたいと思っていた山田でしたが、隣の部屋に住む島田が毎日のようにやって来るようになり、静かな日々は一転します。
最初は迷惑に思っていた山田でしたが、やがて社長がくれた塩辛と、無職の島田が育てた野菜を使った手作りの漬物をおかずに、ふたりは日々の食卓を囲むようになります。
茶碗にこんもりと盛った炊きたてのご飯を頬張りながら2人は取り留めのない世間話をしますが、ある日、山田は幼い頃に自分を捨てた父親が孤独死をしたと役所から連絡があったこと、遺骨を引き取ってほしいと言われていることを他人事のように話します。これを聞いた島田は、遺骨は引き取りにいくべきだと諭します。
役所を訪れた山田は、引き取り手のない遺骨がたくさんあることを知り、誰にも看取られずに亡くなった父に想いを馳せます・・・。

友だちでも家族でもないアパートの住人たちに囲まれ、「独りではない」ことを実感していく山田青年。身近な人たちとの触れ合いにより人生が豊かになることを、本作は優しい眼差しで描いています。また、「人はどうやったら幸せを感じることができるのか」というテーマにも踏み込んで、お金やモノ、境遇や場所にとらわれず、自分らしく生きることの楽しさが会話を通して表現され、幸せの意味を問いかけてくるようでした。

夫を亡くした大家の南さん。息子とともに墓石を売り歩く溝口さん。そして島田。ムコリッタで暮らす住人たちは、さまざまな形で「死」を感じながら生きています。山田もまた、父の孤独死の知らせを受け、死と生という問題に新たに向き合うことになります。本作では、いろいろな命のみおくり方を登場させることで、現代における「弔い」を通して、人と人とのつながりを掘り下げています。

ちなみに、アパートの名前に引用されているムコリッタ「牟呼栗多」とは仏典に記載された時間の単位のひとつで48分になります。本作では「ささやかな幸せ」という意味で使われていると思います。よく使われるセツナ「刹那」も同様の時間単位で最小単位を指す言葉です。「刹那」が一瞬の様子を表すように、「牟呼栗多」は、昼から夜にかわる境目、夕焼け色に空が染まっているあいだなどを抽象的に表現する言葉だといいます。それは境目のない生と死を表現しているとも感じます。

エンドロールが終わり灯りが点くと、「面白かったよ」と高齢のご婦人が、迎えにきた女の子とお母さんに微笑んでいました。

Internet Explorer 8.0以降でご覧ください。